暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)

著者
出版者
バジリコ
価格
¥1,575
まじめ、責任感が強い、几帳面、仕事熱心、堅実、清潔、権威と秩序の尊重、律儀、やさしさ、対人的気配り、仲間への配慮などの「メランコリー親和型」の人間が、過労死・過労自殺しやすいという(大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場』青弓社、2003年)。「メランコリー親和型」の人間とは、「他人のために献身的に尽くす人間」である。(p96)
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「自己責任」「自発性」「成果」という考え方は、西欧の個人や社会の成立を前提としたものである。産業医の荒井千暁さんは、現在職場に生じている事態を「昨日まで儒教思想が重んじられる年功序列社会で働いていた日本人が、欧米社会にある日突然乗り換えようとチャレンジしている」(新井千暁『職場はなぜ壊れるのか』ちくま新書、2007年)という。
これら「自己責任」「自発性」「成果」といった原理を「世間」しかない職場に導入した場合に、個人が存在しないために従業員間のあつれきの原因となり、これが引き金になって睡眠障害、自律神経の乱れ、うつ病を発症することが多い。(p99)
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夫の側が、家庭は「癒しの場」や「憩いの場」だというときには、根底にはこの「母子関係」がある。つまり、自分が癒される場所、憩える場所だと考えている。そかし妻の側にとって、家庭はあくまで「夫を癒してあげる場」や「夫を憩わせる場」なのである。そこに「癒される自分」は存在しない。このちがいは決定的である。(p128)
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日本の夫婦をつなぐ原理とはいったい何か?
それは「愛」ではなく、「母子関係」である(もちろん、吉本ばななの『キッチン』のように、男と女の立場が逆転していてもかまわない)。日本では夫婦関係は当初は恋愛関係や男女関係であるかもしれないが、しだいに「夫婦愛」ともよばれる、ある種静かな関係にかわるのが理想だと考えられている。
つまり一般に日本では、恋愛が恋愛として完結しない。恋愛関係はいずれ壊れるか、壊れなければ「母子関係」に移行するかどちらかになる。(p128)
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「世間」の本質は共同幻想であるが、ある場合には社会を意味し、ある場合には親族や家族も含むという、きわめてあいまいな共同幻想である。〈中途略〉
このことは、息子が犯罪をおかして警察に逮捕されたようなときに、家族は「世間」に対して対抗できるような原理をもたないことを意味する。西欧の家族の場合には、社会と対抗できる愛情原理をもつために、どんなことがあろうと、まず社会から家族を守るのがあたり前である。たぶん堂々、顔を出して「息子は無罪だ」という記者会見を開くだろう。
ところが日本の家族の場合には、逮捕された息子は悪くないと思っても、まず「世間」に、「世間をお騒がせて申し訳ありません」と謝罪しないといけない。もちろん、子どもを愛していないからではない。家族が、「世間」にたいして対抗できるような愛情原理をもっていないからである。(p124)
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奇妙なことに、日本の家庭で夫婦がお互いをよぶときに、「ママ」「お母さん」や「パパ」「お父さん」がつかわれる。子供が親をよぶときの名前が、そのまま夫婦の呼称になっているのだ。これは、そもそも夫婦がお互いに一個の人格として向き合っているのではなく、あくまで子どもを媒介として向き合う関係であることを示している。(p128)
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社会学者の桜井陽子/桜井厚さんが面白いことをいっている。核家族の絶頂期だった七一年に、東京・文京区でおこなわれた「家族のイメージ」についての調査で、夫側の過半数が「生活にかくことのできない便利な場所」を、妻側の過半数が「夫や子供を憩わせる場所」を選び、「夫婦の愛情を育てる所」「人間として磨きあえる所」はきわめて少数であったという。
また妻のいう「いい夫」とは、「妻子ために一生懸命働く」「頼めば家事もやる」「給料をちゃんと運ぶ」「子供にやさしい」夫のことだと桜井さんは指摘する。たしかにいまでも、夫を過労死でなくしたような場合に、先立たれた妻は「家族をとても愛してくれたよい夫だった」という言い方はよくするが、「自分を愛してくれた」という言い方はあまりしない。
つまりここには、西欧の家族では当然の前提とされる、男女である夫婦の「愛」が存在しない。恋愛が存在しないといってもいい。日本の家族は結局のところ、会社と同じように「公」ととらえられ、それに「滅私奉公」する人物像がまさに「よき夫」「よき妻」であった。
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阿部(謹也)さんの「世間」論が衝撃的だったのは、日本には「世間」はあるが、社会など存在しないと主張したことである。これは、一般に強い衝撃を与えたが、とくに日本のほとんどの人文・社会科学に関わる学者の顰蹙を買うことになった。
なぜか?
日本のほとんどの人文・社会科学は西欧からの輸入品であり、それは西欧の社会を前提としたものであったために、大多数の学者は、日本にも社会が存在し、自分もそのなかで生きていると信じていたからである。(p15)
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「世間」とはいったい何か。
「世間」はかつて西欧にもあったが、いまでは西欧にはなく、ことに先進工業国では日本にしかないような、人的関係のあり方である。(p10)
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十一、二世紀にキリスト教会は「告解」の制度をつうじて、当時民衆の間にまんえんしていたゲルマン的な俗信・迷信を、「異端の教え」として徹底的に否定した。俗信や迷信をおこなった者に、さまざまな贖罪を科してそれを禁止したのだ。前にものべたように、この神への告白と都市化によって、「世間」が否定され、個人や社会が形成された。(p136)
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