狂気の歴史―古典主義時代における
批判的考察の特権は、いかにして十六世紀に組み立てられたのだろうか?

[1]狂気は、理性と相関的な形式になる。あるいはむしろ、狂気と理性は、相互にいつまでも置換しうる関係をもつにいたる。この可逆関係によって、どんな狂気も、判断し統御してもらえる理性をもち、どんな理性も、理性がそのなかに自分のわずかな真理を見いだすような狂気をもつことになる。…両者はともに相手を否定しあうが、相手に根拠をおいている。神の見るところでは世界は狂気であるという古来のキリスト教的主題が、十六世紀に、こうした相互性の厳密な弁証法のなかに若返る。…神に近づくために狂気から離れようと努める動きもまた、人間の次元では狂気である。…神の知恵は長い間ヴェールをかけられていた理性ではなく、測りしれない深みである。…知恵の中心そのものがあらゆる狂気のめまいであれと願う主要な矛盾のしるしによって、たえず矛盾しあうことをやめない。…神の〈知恵〉と比べると、人間の理性は狂気にほかならなかった。人間のうすっぺらな知恵とくらべると、神の〈理性〉は痴愚神の大いなる動きのなかに含まれる。大きい尺度ではかると、すべては〈痴愚神〉の仕業にほかならず、小さい尺度ではかれば、〈すべて〉はそれじたい狂気なのである。すなわち、狂気は理性との係わり合いによってしかけっして存在しないけれども、理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。…狂気は…理性との相対性によってのみ実在し、その相対性のおかげで理性と狂気は相互に救いあうことによって、相互に相手を失ってしまう。(p.46-49)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
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