社会を変えるには (講談社現代新書)
フッサールとその後継者が提唱した考え方は、主体と客体、「私」と「あなた」はあらかじめ存在するのではなく、「志向性」のなかで事後的に後世されるのだ、ということでした。この考え方を、私なりに説明します。
 けんかをすると、「あなたがそんのな人だとは思わなかった」ということがしばしばおきます。近代科学の考え方では、私は「あなた」を誤って認識していた、今回新しい観測データが入ったので正確な認識に改めた、ということになります。
 ところが、そういう考え方をすると、けんはもっとひどくなります。「私だってそんな人間だとは思わなかった」とか「あなたの認識は間違っている」と、相手は言い返します。それに対し、「あなたの認識のほうこそ間違っている」と応じて、おたがいに罵りあいようになります。
 近代的な考え方では、どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているとしても、どこかに正しい「真実」があって、それを人間は把握できるとされます。離婚訴訟などは、どちらの認識が正しいのかを立証しようとします。
 かといって、記憶は変形しやすいし、それぞれが言っていることは、誤認やうそがあるかもしれません。そこで、殴られたときに医者にかかった診断書や、録音していおいた罵りあいなどの、証拠を提出して「真実」に迫ろうとします。くりかえしになりますが、これは「私」と「あなた」を正確に観測すれば、その相互作用としての世界を把握することができる、という考え方を前提にしています。(p348)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
お気に入りにいれた人:0人   お気に入りに追加する