言語を所有すること、それはまず単なる「言語的なイメージ」が事実として存在すること、発語したり、耳から聞こえた語が残した痕跡が、わたしたちのうちに存在することとして理解された。この痕跡が身体的なものであると考えるか、「無意識的な心的作用」のうちに沈殿していると考えるかは、それほど重要ではない。どちらも「話す主体」が存在しないという意味では、言語について同じような考え方をしているのである。…ところで人間には選択的な障害というものがある。…こうした障害から判断して、言語は独立した構成要素で形成され、一般的な意味での言葉というものは、思考の産物にすぎないと考えられるようになる。…正常な人間が所有しており、患者が失ったもの、それは語のいわば〈在庫〉ではなく、語のある種の使い方である(例:現実的な文脈を離れると語を使えなくなる失語症患者、色名健忘と色の分類の障害)。…ある対象を名付けるということは、その対象に固有の個性的な要素から離れて、一つの本質やカテゴリを代表するものを、その対象のうちに見つけること…。…(患者は)感覚与件をカテゴリーのもとに分類する一般的な能力を失った…カテゴリー的な態度から具体的な態度へと転落した…。こうした分析から…いまや言語は、思考によって条件づけられたものにみえてきた…。(p.8-12)