メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
カントの有名な問いに対しては、わたしたちは内的な言葉や外的な言葉によって、自分の思考を示すのであり、(言葉で表現することは)実際には思考の経験なのであると答えることができるだろう。…わたしたちは事物を認識し、次に事物の名前を呼ぶのではない。認識すること、それは事物の名前を呼ぶことである。…言葉は、言葉を語る者においては、すでに作り上げられた思考を翻訳するものではなく、思考を成就するものとなる。言葉を聞くものが、言葉そのものから思考を受け取ることは、明らかだろう。…語や語句に意味を与えるものは聞いた者であり…聞く者のうちに、この結びつきを自発的に実現する能力がなければ、これを理解することはできないと考えられるからだ。…するとコミュニケーションという経験は、幻想になる。…片方の意識から他の意識へは、実はなにも渡されないということになる。しかし、ここで問題なのは、意識が何かを学ぶという事態が存在しているようにみえるのはなぜかということ…。…ここには、既知の項の関係から、未知の項を見いだすという(数学的な)問いの解と比較できるものはなにもない。…他者を理解する場合には、問題はつねに未決定なままである。問題が解決された後になってはじめて、所与が解決へと収斂するものとして思い出されるのである。…ここでは語の意味が最終的には語そのものによって導かれることが必要である―正確に言うと、語の概念的な意味は、言葉に内在する身振り的な意味作用から引き出されることで形成される必要がある。(p.14-18)