メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
言葉についての通説では、思考も言葉も凝固させておいて、このふたつの間に外的な関係しか見いださない。まず、話す主体においては思考では表象ではないこと、思考は対象や関係を明確に措定するものではないことを確認しておく必要がある。語り手は、話す前に考えるのではないし、話す間に考えるのでもない。語り手の言葉が思考そのものなのである。…空間の中で身体を動かすために、外的な空間とわたし自身の身体を表象する必要はなかった。こうした空間と身体が存在し、わたしの周囲にはりめぐらされた行動の場を形成していれば、それで十分だった。同じように、語を知り、これを発語するには、語を表象する必要はない。自分の身体に可能な使用法の一つとして、様態の可能性の一つとして、語の文節的で調音的な本質を所有していれば十分である。…わたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない。わたしがピエールを想像するということは、「ピエールの振る舞い」をわたしの中で作動させて、ピエールの疑似現前を作り出すことである。想像したピエールが〈世界における存在〉の一つの様態にすぎないのと同じように、語のイメージは、わたしの身体の全体的な意識において、他の多くの様態とともに与えられた音声的な身振りの一つの様態にすぎない。…記憶における身体の役割を理解するためには、記憶を過去を構成する意識と考えるのではなく、現在における関わりから出発して、時間を再び〈開こう〉とする努力と考えねばならない。身体はわたしたちが「姿勢をとる」ことのできる手段であり、疑似現前を作り出すことのできる手段、空間だけでなく時間と交わるための手段であると考えなければならない。…身体は特定の運動的な本質を〈声化〉し、調音の現象のうちに一つの語の文節的なスタイルを展開し、身体が取り戻す自然の態度を過去のパノラマのうちに展開し、実際の運動のうちに運動の意図を投射する。