指揮者ケンペを聴く
評価 :(未評価)

熱烈なケンペ・ファンが書いたものだけに、数々の録音が絶賛の嵐で、「ケンペってこんなに名盤多かったっけ?」と思ってしまうほど。個別のディスクの「感想」については異論も少なくないが、「好きな人にはそう聴こえるんだろう」ということで、特に否定するつもりはない。ただ、帯の文章にあるように「根拠なき『地味な指揮者』説を覆す」などといわれると、「『地味な指揮者』のどこがいけないの?」と言いたくなる。自分の好きなものが他人に認められないのは、確かに辛いことだ。特に著者のように、ケンペに陶酔しきっている人にとって、ケンペが「地味な指揮者」「没個性」「枯淡」とイメージされているのは耐え難いだろう。

しかし、そんなに他人の意見ばかり気にしていると、最後にはルサンチマン(怨恨)の感情しか残らなくなる。もっとも、ルサンチマンの上に立つのが「愛」だから、愛とルサンチマンは表裏一体でもあるが、それも度が過ぎると「ファシズム」に行き着いてしまう。実際、本書を読んでいくと、随所に「(この演奏には)『地味なドイツの指揮者』というイメージはない」「ケンペのライヴは録音とほとんど変わらない上質なもの。このあたりの正確さはカラヤンにも通じるかもしれない」「TESTAMENTによる丁寧な復刻CDを聴くと、ただ重く地味な演奏というわけではないことがわかってきた」といった感じで、「地味なイメージ」を覆そうと躍起になっているのが伺える(この業界で名盤の誉れ高いR・シュトラウスの管弦楽曲集について本書でこの論調が見られない、というよりこのEMI盤について言及そのものがないのは、その必要がないからなのだろうか)。

つまり――これは本書を読む前に認識しておいて欲しいのだが――本書で記されている「感想」は、帯に「自由で論理的で情感あふれる」とあるのとは裏腹に、厳密な意味で客観的な評価とは言い難いのだ。それは、熱烈なケンペ・ファンが書いたものだから当然ともいえるが、であれば、本書で散見(例えばブラームスやブルックナーの項)される「評論家の意見」に対する批判は、第三者にとっては殆どイミのないものだ。結局は水掛け論にしかならないし、客観を主観で断罪することは出来ない。その二つは、次元の違う評価基準だからだ。

本書を通読して感じたのは、筆者のケンペに対する強烈な愛情は微笑ましいと思えるものの、その情熱がいささか上滑りした印象だ。ここまで絶賛の嵐だと、正直、「結局ケンペなら何でも良いんじゃないか・・・」と、全ての評価が胡散臭く思えてくる。実際、著者の評価と照らしながら録音を聴くと、「そこまで言い切るのは言い過ぎじゃ・・・」「こりゃアバタもエクボだな」と辟易することも少なくなかった。もちろん、本書をケンペ・ファンによるケンペ・ファンのためのファンブック」と捉えるなら、それはそれで微笑ましい現象だ。しかし、ケンペの地味なイメージを覆そうという意図が先鋭化した結果なら、このポジショントークはちょっと華につきすぎる。いずれにせよ、そんなに他人の評価を気にする必要はなく、自分が好きで聴いているのなら、それでいいのではないだろうか。

私だって、ハイティンクやシャイーを地味だとは全く思わないが、そのレッテルを覆そうなどという気は毛頭起こらないし、ヒコックスやブライデン・トムソン、ヴァーノン・ハンドリーの素晴らしさは自分さえ理解していればそれで良いと思っている。

最後になったが、巻末の作品別&録音順のディスコグラフィーは、正規盤にはない録音も掲載されており、ケンペファンならずとも必携だ。


参考になった人:0人   参考になった