メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
人は身振りを目撃した際に、その身振りの意味を自らのうちに探したり、自分の内的な経験のうちに探したりすることはない。…身振りそのもののうちに、怒りを読み取るのである。怒りの身振りがわたしに怒りについて考えさせるのではない。怒りの身振りは、怒りそのものなのである。ただしわたしは身振りの意味を、例えばカーペットの色を知覚するように、知覚するのではない。身振りの意味が一つの事物のように与えられていると考えると、人が了解できる身振りの多くが、人間の身振りだけに限られることが理解できなくなる。…意志の伝達や身振りが理解されるためには、わたしの意図と他者の身振りの間の相互性が必要であり、さらにわたしの身振りと他者の行為のうちに読み取れる意図の間の相互性が必要である。…(物を知覚するとき、すべての遠近法に共通な意味を結論するのではなく)その固有の明証性において知覚する。…これはなんらかの認知に基づくものではなく、身体の現前の経験に基づくものである。…同じように、わたしは他者の身振りを知的な解釈の行為によって理解するのではない。意識と意識の伝達は、それぞれの意識の経験における共通の意味に基づいたものではない。…わたしが他者を理解するのは、わたしの身体によってである。わたしが「事物」を知覚するのが、身体によってであるのと同じように。(p.27-31)