罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)

(5.0点)
この小説にかかるには、たくさんのハードルが待ち構えています。

・「罪と罰」という何ともとっつきにくそうなタイトル。難しいんでしょ、どうせ。
・著者近影の写真は眉間にめっちゃ深い皺。難しいこと考えているんでしょ、どうせ。
・ドストエフスキーという著者の重厚な名前。「ド」が重いんだな、「ド」が。
・登場人物の一度では到底覚えきれない長ーい名前。アヴドーチャ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワって。
・読んだことないけど「ロシア文学」と言われるだけで感じる息苦しさ。革命とか。社会主義とか。
・てか、異様に長いし。

色々なハードルが待ち構えているように見えますが、基本的には新聞に連載された、ただの大衆小説です。
そして作者もただの阿呆です。思想に狂い、女に狂い、ギャンブルに狂い、借金にまみれます。
深い皺は借金問題です。たぶん。

読み慣れるまでには少し時間はかかるけど、慣れてくると、上の懸念はなくなります。
(特に長い名前は記号に見えてきます)
むしろ、そこが名著と言われる所以というか、時代感や国境感を超越してきます。
また、読者に色々な解釈を許す懐の広さもあります。

私が興味を引かれたテーマは「存在の規定」というところでしょうか。

生まれたばかりで誰からも祝される赤ちゃんに名付けるという愛に溢れる行為も、
極貧の生活から、家族を養うために娼婦に落ちぶれる様も、
打算から裕福な人と結婚をしようとする浅慮ながら苦渋に満ちた意志も、
その全ては、是非はともかく、存在の規定にほかなりません。
なにものかがそこに在る、ということの証左です。

その意味で、自身にとっては高邁でも、明らかに傲慢な殺人を犯し、
踏み越えられる存在になろうとしたたラスコーリニコフは、
その犯行が露見しない、ということによって、存在が無視されます。

嫉まれるにせよ、愛しがられるにせよ、そこでは存在は規定される。
だけど、内なる存在が自身のなかだけで孤立し、無視された状態は、
それは無いと同義。無こそ罰。
否、無に耐えてこそ、ナポレオン足りうるのだと思います。


最後に、この光文社の古典新訳シリーズ、良いと思います。
100~200年前くらいの古典を中心にラインナップしていますが、とても読みやすい。
最初に書いた、漠然と感じる抵抗感は捨ててかかっても、大丈夫だと思いますよ。

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