暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
「世間」の本質は共同幻想であるが、ある場合には社会を意味し、ある場合には親族や家族も含むという、きわめてあいまいな共同幻想である。〈中途略〉
このことは、息子が犯罪をおかして警察に逮捕されたようなときに、家族は「世間」に対して対抗できるような原理をもたないことを意味する。西欧の家族の場合には、社会と対抗できる愛情原理をもつために、どんなことがあろうと、まず社会から家族を守るのがあたり前である。たぶん堂々、顔を出して「息子は無罪だ」という記者会見を開くだろう。
ところが日本の家族の場合には、逮捕された息子は悪くないと思っても、まず「世間」に、「世間をお騒がせて申し訳ありません」と謝罪しないといけない。もちろん、子どもを愛していないからではない。家族が、「世間」にたいして対抗できるような愛情原理をもっていないからである。(p124)