同じ時代に、文学や哲学や道徳では、狂気(痴愚)の主題は、まったく別種の発想から生まれている。中世紀には、狂気は悪徳の階層秩序のなかに組み入れられていた。文芸復興期になると、狂気はこうしたつつましい地位を離れて第一の地位を占めるようになる。…原罪をせおう人間のそれは根本に傲慢の罪があったのにたいして、今では狂気が…人間のあらゆる弱点を指揮しているのである。…狂気の絶対的な特権。人間のなかにある悪のすべてを狂気が支配している…。だがそれは、人間がなしうるいっさいの善、欲、哲学者や学者に活力を与えるぶしつけな好奇心、こうしたものを間接的に支配していないだろうか。…狂気は例の知がたどる奇異な道と何かつながっているに違いない。…(根拠:狂人のまとうマントをひっかけた学者の挿絵版画の例)…知が狂気のなかでこんなに重要な役目を果たすのは、狂気が知の秘密を保持しうるからではなく、反対に、無秩序で無益な学問に対する懲罰となっているからだ。狂気が認識の真理であるのは、認識のほうがとるにたらぬものとなっているからであり、経験という偉大な〈書物〉に訴えかけずに、ほこりをかぶった書籍や役にもたたぬ議論のなかに埋もれているからである。学問自体が…痴愚(狂気)に陥っている。(p.38-40)
--出典:
狂気の歴史―古典主義時代における