文学や哲学のような表現領域では、狂気経験は、十五世紀に、とりわけ道徳的な諷刺の傾向をおびている。例の画家たちの想像力につきまとっていた、侵入してくるようなあの激しい威嚇の調子を想起させるものは、ここにはすこしもない。反対に、そうした想像力を遠ざけるように気が配られているし、そのことは話題にされない。…賢者は、笑いの力をかりることによって、その世界(快い幻想)と一定の距離を保てるのだ。…もはや狂気は、世界の親しむ深い奇怪さではなく、単にそれは、外来の観客にはっきり理解される見世物にすぎないのだ。もはや、宇宙のひろがりという形姿ではなく、時の流れという特質をおびる。(p.41-42)
--出典:
狂気の歴史―古典主義時代における