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本屋に椅子があったので、150ページ程度だったから適当に読み飛ばしつつという感じで。買ってませんけど。 日本でもガルシア=マルケスが広く紹介されることによって脚光を浴びたラテンアメリカ文学から、再び受賞作家がでた。 ガルシア=マルケスは日本では安部公房や大江健三郎なんかも紹介した作家で、公房などはその前年に受賞したエリアス・カネッティに驚いていたところ、さらにものすごい作家が出て来た、というほど衝撃的だったという。しかしバルガス=リョサについては、――引用―― ボルヘス、カルペンティエール、ジョサと読むのか、リョサと読むのか、リョサが正しいという説がありますが、まあどっちでもいいでしょう。こうした作家たちはこのところ毎年ノーベル賞の有力候補に名をつらねていたらしい。だからと言って、ひっくるめてラテン・アメリカ文学と言って済ませてしまえるものかどうか、僕は反対なんです。そういう見かたでマルケスをとらえると間違えるような気がする。マルケスとジョサでは全然レベルが違うような気がする。(『死に急ぐ鯨たち』「地球儀に住むガルシア・マルケス」)――引用終わり―― と非常に低くみている。こんな引用の仕方をすると苦労人の貧乏作家という感じを醸してしまうけども、セルバンデス賞なんか受賞して注目されていた作家ではあります。公房個人の感じ方で、ぼくもそれしか知らなかったというだけです。しかし上に引用した本は昭和61年ですから、細かいことは知りませんが少なくともそれ以前の文章ということでしょう。そのころからすでに候補にあがっていた作家が、去年やっと受賞ということになったわけですから、やはり苦労人という感じはします。 この本を読んでもそう感じられます。すごくストイックで、名声やなんか成功してからの夢を紡ぎすぎるのはよくないとか、小説家になるというのは人生を賭けるということだということを言っています。非常に情熱的でもありますが、ちょっと固すぎるんじゃないかというくらいです。古風というんでしょうか。 挨拶が済むとラテンアメリカの作家を中心に創作論という感じです。コルタサルやらボルヘスやらです。ボルヘスを模倣する作家は多いけれど、そういう作品を読むとズレたヅラを見るようにいらいらするとか、そういうことを言ってます。あとは台詞にト書きをつけるかつけないかで焦点人物が変わるとか、こういうのは細かいことだけど重要なことなんだと。ト書きというのはつまり鍵括弧で括った台詞に<と○○は言った>という文章をつけると三人称の語り手になるけども、つけないと語り手が喋っている人物にそのつど変化するということのようです。 覚書でもあるので長くなりました。買わなかったのは、おもしろい創作論だけど、何度も繰り返し読む類の本ではないなと思ったからです。 そうそう、最後に、文学評論にはすべては語れないという批判が見られました。文学評論が無駄だというのではないがともいっていますが、やはり小説家の創作論にかかるとそんな気もしてしまいます。 おもしろい本ではありますから、そのうち買うかもしれません。ちなみにブックオフにはもう中古がありました。
本屋に椅子があったので、150ページ程度だったから適当に読み飛ばしつつという感じで。買ってませんけど。
日本でもガルシア=マルケスが広く紹介されることによって脚光を浴びたラテンアメリカ文学から、再び受賞作家がでた。
ガルシア=マルケスは日本では安部公房や大江健三郎なんかも紹介した作家で、公房などはその前年に受賞したエリアス・カネッティに驚いていたところ、さらにものすごい作家が出て来た、というほど衝撃的だったという。しかしバルガス=リョサについては、
――引用――
ボルヘス、カルペンティエール、ジョサと読むのか、リョサと読むのか、リョサが正しいという説がありますが、まあどっちでもいいでしょう。こうした作家たちはこのところ毎年ノーベル賞の有力候補に名をつらねていたらしい。だからと言って、ひっくるめてラテン・アメリカ文学と言って済ませてしまえるものかどうか、僕は反対なんです。そういう見かたでマルケスをとらえると間違えるような気がする。マルケスとジョサでは全然レベルが違うような気がする。
(『死に急ぐ鯨たち』「地球儀に住むガルシア・マルケス」)
――引用終わり――
と非常に低くみている。こんな引用の仕方をすると苦労人の貧乏作家という感じを醸してしまうけども、セルバンデス賞なんか受賞して注目されていた作家ではあります。公房個人の感じ方で、ぼくもそれしか知らなかったというだけです。しかし上に引用した本は昭和61年ですから、細かいことは知りませんが少なくともそれ以前の文章ということでしょう。そのころからすでに候補にあがっていた作家が、去年やっと受賞ということになったわけですから、やはり苦労人という感じはします。
この本を読んでもそう感じられます。すごくストイックで、名声やなんか成功してからの夢を紡ぎすぎるのはよくないとか、小説家になるというのは人生を賭けるということだということを言っています。非常に情熱的でもありますが、ちょっと固すぎるんじゃないかというくらいです。古風というんでしょうか。
挨拶が済むとラテンアメリカの作家を中心に創作論という感じです。コルタサルやらボルヘスやらです。ボルヘスを模倣する作家は多いけれど、そういう作品を読むとズレたヅラを見るようにいらいらするとか、そういうことを言ってます。あとは台詞にト書きをつけるかつけないかで焦点人物が変わるとか、こういうのは細かいことだけど重要なことなんだと。ト書きというのはつまり鍵括弧で括った台詞に<と○○は言った>という文章をつけると三人称の語り手になるけども、つけないと語り手が喋っている人物にそのつど変化するということのようです。
覚書でもあるので長くなりました。買わなかったのは、おもしろい創作論だけど、何度も繰り返し読む類の本ではないなと思ったからです。
そうそう、最後に、文学評論にはすべては語れないという批判が見られました。文学評論が無駄だというのではないがともいっていますが、やはり小説家の創作論にかかるとそんな気もしてしまいます。
おもしろい本ではありますから、そのうち買うかもしれません。ちなみにブックオフにはもう中古がありました。