社会を変えるには (講談社現代新書)

著者
出版者
講談社
価格
¥1,365

評価・詳細レビュー

(5.0点)
小熊氏は、これまでの日本社会の経過を
「社会」を「宴会」に例えて説明しています。
みんなにとって楽しい「宴会」にするにはどうしたら良いのか?
そんな視点で読むと得るものが大きいと感じた一冊です。
--------
昔の宴会は問題があまり起こりませんでした。
有力者が「この料理にする」と決めればみんな従っていた。
選択肢も限られていたし、みんながそんなものだと思っていたので、
けっこう楽しんでいました。

そのうち、だんだん選択肢が増えてきました。
すると幹事さんの苦労が増えてきます。
幹事さんは、事前に参加者の希望を聞いて、
洋食◯人、和食◯人、中華◯人…とカテゴリーで把握して注文しておくことにしました。
不満が出たらさらに選択肢を、肉が◯人、魚が◯人と細分化していきます。

ところが、いくらやっても不満が出ます。
幹事の支持率は下がり、「いい幹事がいるらしい」となれば交代しました。
しかし「絶対にみなさんを満足させます」という触れ込みにも関わらず
事態は好転しません。

そのうち年寄りが「わがままを言わせるな。強い幹事を連れてきて従わせろ」と言い出す始末。
それなりに参加する人もいましたが、若い人が参加しなくなって、宴会がさびしくなっていきました。
それで、参加を強制したら、今度はもめごとが絶えなくなってきた。

「幹事が決めるからいけない。バイキングにして自由選択にしよう」という妙案が出てきました。
「そうだ、そうだ」とみんなが思ったのですが、一時的な満足でした。
「あれはないのか、これはないのか」と言い出す人があいついだため、
バイキングの品数を増やさなくてはならなくなりました。
その結果、食べ残しが多くなり効率が悪くなります。
専門の料理人やたくさんの食材が必要になります。
地元の料理屋では対応できなくなり、都会の大きなホテルが会場になります。
参加費が高くなり、参加できない人が出てきました。

参加費を下げるには、おおぜい人を呼ばなくてはなりません。
大量にチケットを販売するしかありません。
なんだか今度はよそよそしい雰囲気の宴会になりました。
数人で固まって話をする人、すみっこで一人で食べている人などがでてきて、
宴会の意味がなくなってきました。

これはまずい、とインターネットで探したら、
少人数でも安く好みのセットを提供する業者を発見しました。
品目もそれなりにありますが、よく見れば同じ食材の調理方法を変えてあるだけです。
安くするために、本部が食材を一括大量仕入れしていました。
「こんなあなたにぴったり」という
カテゴリー分けされた上手な謳い文句がついているのですが、
だんだん飽きてきます。
「あなたはこんな人でしょう」と分類されて、
自分が手のひらで踊らされているような、いやな気分もあります。

おまけに、非正規雇用の若年者や女性が、
本部が作ったレシピで機械的に調理している様子で、
そこで働いていた親戚からひどい職場だったといううわさも伝わってきました。

さて、どんな宴会なら、参加者がみんなが
安い参加費で、楽しく参加でき、満足してもらえるのか?
幹事がするべきことはなんでしょうか?

優れた幹事任せでなく、
参加者の自由選択でもない
みんなが楽しい宴会の形はいかに。

参考になった人:0人   参考になった

引用

 現象学を社会学にとりいれたのが、現象学的社会学です。これがのちに、エスノメソドロジーという学派にもつながり、「構築主義」という考え方になります。
 これらで重視されるのは、自分も世界も相手も、作り作られてくるものだから、それがどんなふうに構築されているのかを考えるということです。この作り作られてくる関係のことを、リフレクシビティreflexivityと言い、「反映性」とか「再帰性」とか訳されます。
 構築主義的な研究テーマは、たとえば現在の「女」や「男」の概念や役割などは、どのように作られてきたのか、などです。「男並みに働く」か「女らしく主婦になる」かのどちらかを選べという発想は、「女の役割」がもとからある、遺伝子で決まっている、という発想にもとづいています。
 そうではなくて、工業化をはじめとした歴史的変化や、社会関係のなかで、どうやって「女」が作られてきたか、それと同時に「男」もどう作られてきたか、を考えるわけです。「日本人」と「朝鮮人」がどう作られてきたのか、とか、国益や社会問題はどう作られてきたのか、といった研究などもあります。
 たとえは、尖閣諸島問題は、いつから問題だったのでしょうか。領海や排他的経済水域が陸地から十二海里とか二〇〇海里で決められるという取り決めができる前は重要度は低く、もっと昔はどうでもよい岩の塊でした。一九七八年の日中平和友好条約の際も、ほかに重要な項目があったので、棚上げされました。(p356)
お気に入りにいれた人:0人   お気に入りに追加する

 ここではあらかじめ「私」や「あなた」がある、それが相互作用する、という考え方を個体論とよびましょう。それにたいし、関係のなかで構成されてく、相手も自分も作り作られてくる、という考え方を関係論とよびましょう。
 人間は、なかなか個体論的な発想から抜け出せません。やっぱりあなたが悪い、私が正しいと思い、あれこれの観測を数えあげてしまう。そのところで、「ちょっと待て、いったん頭を空にしてみよう」という知恵が必要です。それを「エポケー」といい、日本語では「判断停止」などと訳します。
 このような考えをフッサールは、第一次大戦前から唱えていましたが、戦後に広く受け入れられていきました。戦争の体験、科学の変化、ドイツ社会の動揺などが重なって「絶対ということはありえない」という感覚が背景になっていたと思われます。(p352)
お気に入りにいれた人:0人   お気に入りに追加する

 それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から「私」や「あなた」があるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、「すばらしいあなた」と「すばらしい私」が、この世に現象します。仲が悪くなると、「悪逆非道なあなた」と「被害者の私」が、「私」から見たこの世に現象する。これを、「ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた」と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、「私」と「あなた」が現象しているのだ、と考える。
 つまり、関係のなかで「私」も「あなた」も事後的に後世されてくる、と考えるわけです。関係の中で作られてくるわけですから、どちらが正しいということは言えません。向こうが怒ればこちらも腹が立ちます。向こうが笑えばこちらも警戒心を解きます。関係は変化しますから、「私」も「あなた」も変化します。おたがいが、作り作られているのです。(p351)
お気に入りにいれた人:0人   お気に入りに追加する

ウィッシュリストへ追加
非公開
タグ

メモ


ライブラリへ追加
非公開
評価
 
読書ステータス
つぶやく
タグ

メモ


タグを入れることで、書籍管理ページで、タグ毎に書籍を表示することが出来るようになります。
また、スペース区切りで入力することで1つの書籍に複数のタグをつけることもできます。

※注意: このタグはあなたの管理用だけでなく、書籍自体のタグとしても登録されます。あなた以外の人に見られても問題ないタグをつけてください。
ウィッシュリストからライブラリへ移動
評価
 
読書ステータス
つぶやく