性差を越えて―働く女と男のための栄養剤
明治の戸籍制度は、はっきりと家に立脚点をおいた。一八九八年に明治民法が成立すると、家に同居する人間は、同姓を名乗るように強制された。
今日でも、子供が誕生すると、戸籍係に届け、その家の一員として登録する。結婚すれば、結婚した旨を、戸籍係に届け、同姓を名乗る。同棲していても、子供が生まれると、子供を無戸籍にするのは忍びないと、同籍にする。女が台頭した今日でも、皮肉なことに、女が戸籍に執着する。夫婦が別姓を名乗るのは、いまだにすこぶるつきの少数例である。もちろん、男の姓を名乗る例が、九五パーセントを超えている。
日本人も西洋人も、個人としてしか、生まれようがない。しかし、日本人は、生まれるとすぐ、家を単位とした戸籍に組み込まれる。そして、一生を終えて、土にかえるときは、○○家の墓で永眠する。ここには、個人としての存在感は、希薄である。
戸籍は、きわめて日本的な制度である。韓国と台湾には、太平洋戦争の時に、日本が強制してつくらせたので、残っている。しかし、それ以外の国には、家を単位とする戸籍制度はない。多くの国が個人登録制である。
工業社会どころか、情報社会になっても、いまだに、日本人は農耕社会の残滓の中にいる。そして、○○家の墓や戸籍が証明するように、いまだに個人は自立していない。(p208)
共感が、人間関係を支えている社会では、弱者の体験を共有できないがゆえに、弱者は孤立せざるをえなのだ。弱者には、哀れみと同情が、注がれるだけである。明日は自分が弱者になるかもしれない、という認識が共有されることはない。だから、弱者は、黙って社会から消えていくのだ。
雇用機会均等法は、国内の運動としては生まれなかった。海外からの圧力によって、産業界がしぶしぶ承諾したので、均等法は成立した。日本の現状はまだまだ、きわめて強固な男社会である。しかし、日本でも、女が台頭しているのは、紛れもない事実である。それは、日本でも、価値が移動していることを意味している。
日本のほんとうの弱者たち、それはおそらく子供であろう。子供は支配を完全に受けていないので、自意識が完成していない。社会の価値観を体得する時期に、体得すべき価値観は無秩序である。女達は、もはや男社会に、何の意味も見いだしていない。男たちも、自分たちの社会に自信はない。今の子供たちには、見習うべき人生の手本がない。
今では、価値は不動だったから、それを人間の本質であるとして、教育ができた。しかし、価値を失った今の社会は、どんな人間を育てたらいいのか、暗中模索である。人間の本質を、見失ってしまったのである。そこでとにかく、現在の社会に適合する人間をつくる以外に道はない。それが二〇年後、三〇年後に役にたつかどうか、わからないのにもかかわらず、現在の価値に照準を合わせざるをえない。(p217-218)
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