メルロ=ポンティ・コレクション (ちくま学芸文庫)
人は身振りを目撃した際に、その身振りの意味を自らのうちに探したり、自分の内的な経験のうちに探したりすることはない。…身振りそのもののうちに、怒りを読み取るのである。怒りの身振りがわたしに怒りについて考えさせるのではない。怒りの身振りは、怒りそのものなのである。ただしわたしは身振りの意味を、例えばカーペットの色を知覚するように、知覚するのではない。身振りの意味が一つの事物のように与えられていると考えると、人が了解できる身振りの多くが、人間の身振りだけに限られることが理解できなくなる。…意志の伝達や身振りが理解されるためには、わたしの意図と他者の身振りの間の相互性が必要であり、さらにわたしの身振りと他者の行為のうちに読み取れる意図の間の相互性が必要である。…(物を知覚するとき、すべての遠近法に共通な意味を結論するのではなく)その固有の明証性において知覚する。…これはなんらかの認知に基づくものではなく、身体の現前の経験に基づくものである。…同じように、わたしは他者の身振りを知的な解釈の行為によって理解するのではない。意識と意識の伝達は、それぞれの意識の経験における共通の意味に基づいたものではない。…わたしが他者を理解するのは、わたしの身体によってである。わたしが「事物」を知覚するのが、身体によってであるのと同じように。(p.27-31)
普通の考え方では、言葉は思考を固定するための手段にすぎないとか、言葉は思考の外皮であり、衣装であると言われることが多いものだが、こうした考え方を認めることはできない。…語に固有の意味の能力がそなわっていなければ、語が「思考の砦」であることはできないし、思考は表現を探すことができない。なんらかの形で、語と言葉が、対象や思考を指示するための方法であることをやめ、知覚される世界における思考の現前そのものでなければならない。語は思考の衣装ではなく、その象徴であり、その身体でなければならない。…言葉は真の所作であり、所作が固有の意味を含むように、言葉はその固有の意味を含む。ここではじめて、コミュニケーションが可能になる。…しかし、それは…相手の最初の「表象」がわたしのうちに再生産することを意味するのでもない。…わたしがこの他者の意図を受け取るということは、わたしの思考の操作ではなく、わたし自身の実存がこれに同調して変化することであり、わたしの存在の変形である。(p.23-26)
言葉についての通説では、思考も言葉も凝固させておいて、このふたつの間に外的な関係しか見いださない。まず、話す主体においては思考では表象ではないこと、思考は対象や関係を明確に措定するものではないことを確認しておく必要がある。語り手は、話す前に考えるのではないし、話す間に考えるのでもない。語り手の言葉が思考そのものなのである。…空間の中で身体を動かすために、外的な空間とわたし自身の身体を表象する必要はなかった。こうした空間と身体が存在し、わたしの周囲にはりめぐらされた行動の場を形成していれば、それで十分だった。同じように、語を知り、これを発語するには、語を表象する必要はない。自分の身体に可能な使用法の一つとして、様態の可能性の一つとして、語の文節的で調音的な本質を所有していれば十分である。…わたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない。わたしがピエールを想像するということは、「ピエールの振る舞い」をわたしの中で作動させて、ピエールの疑似現前を作り出すことである。想像したピエールが〈世界における存在〉の一つの様態にすぎないのと同じように、語のイメージは、わたしの身体の全体的な意識において、他の多くの様態とともに与えられた音声的な身振りの一つの様態にすぎない。…記憶における身体の役割を理解するためには、記憶を過去を構成する意識と考えるのではなく、現在における関わりから出発して、時間を再び〈開こう〉とする努力と考えねばならない。身体はわたしたちが「姿勢をとる」ことのできる手段であり、疑似現前を作り出すことのできる手段、空間だけでなく時間と交わるための手段であると考えなければならない。…身体は特定の運動的な本質を〈声化〉し、調音の現象のうちに一つの語の文節的なスタイルを展開し、身体が取り戻す自然の態度を過去のパノラマのうちに展開し、実際の運動のうちに運動の意図を投射する。
カントの有名な問いに対しては、わたしたちは内的な言葉や外的な言葉によって、自分の思考を示すのであり、(言葉で表現することは)実際には思考の経験なのであると答えることができるだろう。…わたしたちは事物を認識し、次に事物の名前を呼ぶのではない。認識すること、それは事物の名前を呼ぶことである。…言葉は、言葉を語る者においては、すでに作り上げられた思考を翻訳するものではなく、思考を成就するものとなる。言葉を聞くものが、言葉そのものから思考を受け取ることは、明らかだろう。…語や語句に意味を与えるものは聞いた者であり…聞く者のうちに、この結びつきを自発的に実現する能力がなければ、これを理解することはできないと考えられるからだ。…するとコミュニケーションという経験は、幻想になる。…片方の意識から他の意識へは、実はなにも渡されないということになる。しかし、ここで問題なのは、意識が何かを学ぶという事態が存在しているようにみえるのはなぜかということ…。…ここには、既知の項の関係から、未知の項を見いだすという(数学的な)問いの解と比較できるものはなにもない。…他者を理解する場合には、問題はつねに未決定なままである。問題が解決された後になってはじめて、所与が解決へと収斂するものとして思い出されるのである。…ここでは語の意味が最終的には語そのものによって導かれることが必要である―正確に言うと、語の概念的な意味は、言葉に内在する身振り的な意味作用から引き出されることで形成される必要がある。(p.14-18)
経験主義的または機械論的な心理学と、これとは正反対の主知主義的な心理学には、互いに深い結びつきがある…。…片方の理論では、語の再生、語のイメージを蘇生させることを基本的な問題であった。これに対して、その反対の理論では、これは内面的な操作としての本物の言葉や、真の命名の〈覆い〉のようなものにすぎないと主張する。ところが…どちらの考え方も、語は意味を持っていないのである。…語に意味が〈ない〉というわけではない。語の背後にはカテゴリー的な操作が存在するからだ。しかし語はこの意味を持っているのではない。…意味を所有するのは思考であり、語はその空虚な外皮にすぎないのである。(p.12-13)
言語を所有すること、それはまず単なる「言語的なイメージ」が事実として存在すること、発語したり、耳から聞こえた語が残した痕跡が、わたしたちのうちに存在することとして理解された。この痕跡が身体的なものであると考えるか、「無意識的な心的作用」のうちに沈殿していると考えるかは、それほど重要ではない。どちらも「話す主体」が存在しないという意味では、言語について同じような考え方をしているのである。…ところで人間には選択的な障害というものがある。…こうした障害から判断して、言語は独立した構成要素で形成され、一般的な意味での言葉というものは、思考の産物にすぎないと考えられるようになる。…正常な人間が所有しており、患者が失ったもの、それは語のいわば〈在庫〉ではなく、語のある種の使い方である(例:現実的な文脈を離れると語を使えなくなる失語症患者、色名健忘と色の分類の障害)。…ある対象を名付けるということは、その対象に固有の個性的な要素から離れて、一つの本質やカテゴリを代表するものを、その対象のうちに見つけること…。…(患者は)感覚与件をカテゴリーのもとに分類する一般的な能力を失った…カテゴリー的な態度から具体的な態度へと転落した…。こうした分析から…いまや言語は、思考によって条件づけられたものにみえてきた…。(p.8-12)
バルザックは『あら皮』で、「降ったばかりの雪のようなテーブルクロスの上に、左右の釣り合いのとれた食器がそびえ、その上をブロンド色の小さなパンが飾る」と表現していた。セザンヌは「青年時代を通じて、私はこれを、すなわち降ったばかりの雪のようなテーブルクロスを描きたいと思っていた…。しかし今では、左右の釣り合いのとれた食器がそびえているところや、ブロンドの小さなパンしか描こうとしてはならないことがわかっている。もしも『飾る』を描いたら、私の絵は一巻の終わりだ。おわかりかな。ほんとうに食器やパンの色調を自然のニュアンスのままに描きだし、バランスをとれば、『飾る』も雪もすべてのふるえも、みんなそこに現れるだろう」と語っている。
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