現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
小杉礼子編『大学生の就職とキャリア──「普通」の就活・個別の支援』(2007年、勁草書房)は、〈中略〉「大卒者の早期離職の背景」(第五章)について、「新規大卒者の定着率の向上には、大学教育におけるキャリア教育の活性化以上に、各企業における労働条件の向上のほうが大きいのではないかと推測され」という記述は、定着率の低さがキャリア教育導入の呼び水の一つになっている現状において注目すべきものである。(p232,橋口)
就活中の若者に対して、周囲の親や教師が心がけねばならないことは就活自殺と就活他殺に関することだ。これを防ぐには、日常と緊急の二つがある。これはいじめ被害者を守る方法と同じだ。いじめ加害者は概ね加害者意識が欠如していて、「自分は正規の見方だ」とか「いじめられるあいつが悪い」と思っている。就活自殺や就活他殺の加害者は政府や企業だが「本人が悪い」とか「自己責任だ」と思っている。この言及に加担してはならない。(p83)
報道によれば、九州産業大学のキャリア支援センターには、正社員の生涯賃金とフリーターの生涯賃金を示す札束の模型が展示されている。正社員とフリーターの格差を視覚化することで学生の就職活動を促そうという狙いとのことだが、あまりにも身も蓋もない。就活に怯える学生がフリーターでもかまわないとして就活から逃げることを阻止して、いま頑張らなければ生涯を通じて悲惨な目に遭うという脅しをかけているわけである。就職率をあげるためとはいえ、学生が受ける精神的圧力は多大であると想像できる。
学生を正社員として就職に後押しする一方で、今日の大学は非正規労働の温床でもある。事務職員や図書館スタッフの非正規課は進んでいる。大学の系列子会社の派遣会社から事務員が派遣されているケースも目立つ。さらに、解雇規制法理の類推適用を回避するために、雇用期限の上限を三年や五年とする雇用慣行が私立大学では一九九〇年代から、国公立大学では独立行政法人化した二〇〇四年から拡がっている。五年で雇い止めにしたとしても、その部署がなくなるわけではないからまたべつの非常勤職員が雇用されて五年で職場を去ることがくり返される。キャリアセンターで大学生に正社員の就職を目指すようにアドバイスするスタッフが非常勤という笑えないケースも珍しくない。九州産業大学のキャリア支援センターで働く非常勤職員は、どんな思いで札束を見つめて働いているのか。 (p213,渡邉)
「働くべき」というとき、そこで想定されている仕事は何か?「自活し子どもを養うために欠かせない収入源であり、平日のほとんどの時間を費やす主要な所属先」とリジッドに捉えるのであれば、そのような仕事はますます減少しており、より多くの働かない・働けない若者を生み出し続けてしまう。
働くことを、「食いぶちを得ること」や「子どもを持つこと」、「アイデンティティの帰属先であること」などと切り離し、「社会とつながる」活動を幅広くさすものとして、緩やかに構想していく必要がある。たとえば、親元を離れ家族を持ち自活するうえで必要な資金を、たった一つの仕事から得るのではなく、基本的な所得保障といくつかの仕事の組み合わせから得ていけるようにする。所属も多元化し、一枚の名刺やIDカードが「その人が何者か」を明かすのではなく、複数の場や関係性を束ねる結節点として、自己の固有性が証明されるようなかたちにしていく。(p176,貴戸)
「働かないことが苦しい」という事態は、「働くべき」という価値があらかじめ本人に内面化されていなければ、起こりえない。他者から見て無価値であるだろう己の姿が、自分で「見えて」いるからこそ、「苦しみ」は生じる。これを踏まえれば、「苦しみ」を抱える若者は、すでに十分に「社会的存在」になっていると言える。
日本の青少年行政では、所属を持たず仕事をしていない若者は、「非社会的」と位置付けられてきた。そして、「非社会的」な若者にいかに社会参加を促すか、という問いが展開されてきた。しかし、以上の事例に照らせば、働かないことに苦しみを覚える若者を、「非社会的」とするのは適切でない。本人が十二分に「社会的」であるにもかかわらず、現実の職場に参加することがないとすれば、そこに何があるのか。この点を問うていく必要がある。(p166,貴戸)
エントリーシートや自己分析が、経団連の労働政策と呼応する雇用調整の手段-方便であることは多くの論者が指摘している。それゆえ「バブル前の『自己発見シート』は簡単に答が出ないように設計されていたのに対し、現代の『自己分析』では、就職活動に勝つためには絶対に答えを出さなくてはならなくなった」。浦川も「自己分析」「個性」という新たな価値観の提示は、アスピレーションをクールダウンさせないための手段であるとしている。(p160)
筒井(2010)は、文部科学省が企図する「キャリア教育」は、「自己責任論」「個体還元主義的能力観」を助長することで、人間らしく生きていける公正な労働世界を創り存続させていこうとする「希望ある労働者」を形成できないとする。筒井は調査によって、「労働の実態・制度・構造に関する知識の摂取や理解が不足しているほど、成果主義を信奉するほど、労働行政の役割を等閑視するほど、新卒正社員就職に自信があるほど、自己責任論に賛成である」と指摘する。またここで昨今やっと提唱され始めてきた「労働者の権利教育」でさえ、個人主義であれば、自己責任に回収されると警告している。(p148,樫村)
文科省が大学において推奨しようとしている現在のキャリア教育は、彼ら当事者の若者たちにとって、全く逆の意味をもち始めていることに注意しなくてはならない。大学におけるキャリア教育は、児美川のいう「権利としてのキャリア教育」であれば、朝井のいう、「装置」から外れる思考や想像力の可能性を若者に与えるはずである。しかし実際にさまざまな大学で導入されつつあるキャリア教育にしばしば見られるのは、それが就職課/キャリア支援課の就職支援イベントの延長であり、イベントの授業化・カリキュラム化になっているという事実である。就職コンサルタントが講師となり、どうすれば「employability(エンプロイアビリティ、雇用可能性)」を獲得できるかを講義する。業界人を呼んで、どんな人材を望まれているのかが語られる。もちろん、就職現場を材料にし、業界人とコミュケーションすることは、先述した現実に触れる意味でも重要である。しかし、それが「スムーズに」就職できるための適応の授業となるとき、それは、せっかくの「装置」はずしの契機を疎外する方向へと促進してしまう。(p148,樫村)
現在の就活システムというものは、若者たちを「体制内馴化」させる、既存の労働市場秩序や社会秩序に歯向かわさせずに、それを受容させる強力な装置として機能しているのではないかということです。ここで言う「就活システム」とは、新卒一括採用のことだけを指しているのではなく、学校教育や大学教育が就活に連動していること、生徒や学生に対して、就活に疑いを持たせず、そこに邁進していくように仕向ける体制を敷いている、ということも含めてのことです。要するに若者たちは、最初から現在の就活にも、いまある偏った働き方にも疑問を持たないように巧妙に「社会化」されているのです。
〈中略〉就活システムに乗らない若者も、現在の就活が体現している価値秩序を「内面化」し、そういうものとして承認しています。これは学校教育の「偉大な」力です。自己責任論に基づいて、乗らない(乗れない)のは自分のせいであると考えているのではないでしょうか。だから「就活への反抗」は、イコール「非正規社員への順応」になるのです。(p92,児美川)
日本の大学は、自らの「教育」のレリバンス(意義)の「証」を立てる基準をどこにも持ってこなかったのではないかということです。大学における「研究」であれば、学会レベルでの評価等を通じて、自らの研究レベルを示すことができます。しかし、「教育」となるとそうはいきません。大学の学部は、専門教育を行う機関ですから、本当はもっと学生たちが身につける専門性のレリバンス、とりわけ職業的レリバンスによって評価されてよいのかもしれません。しかし、ご承知のように、日本の労働市場は職種別に構成されてはいませんし、それぞれの職とそのランクごとに求められる職業的(専門的)知識やスキルの内容が明示されたりはしていません。だから、日本の大学では、自ら専門教育の職業的レリバンスによって「教育」レベルの「証」を立てるということができないのです。入学難易度や就職実績は、本当はたたの「代理」指標に過ぎません。しかし、代理ならぬ「本体」の指標がないわけですから、これらが脚光を浴び、突出してしまうのではないでしょうか。(p88)
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