ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

(真面目な笑話の)第三の特徴は、このジャンルがすべて意図的に複数の文体、多様な声を含んでいることである。…いくつかのジャンルで主導的役割を担っているのは、複声的な言葉である。つまりそこには、文学の素材としての言葉に対する根本的に新しい態度が登場しているのだ。(p.223-224)
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真面目な笑話の諸ジャンルの際立った特徴はどこにあるのか?…それらはみな、多かれ少なかれ独特のカーニバル的フォークロアと深い関わりを持つ点で一致していた。…確かに真面目な笑話のジャンルはすべて強い弁論術の要素を含んでいるが、しかしその要素も、カーニバル的世界感覚の陽気な相対性の雰囲気の中で、根本的な変化をこうむっている。つまりその一面的な弁論術的生真面目さ、分別臭さ、一義性と教義主義が弱められているのである。
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文体模写とパロディーにおいては、すなわち第三タイプの言葉のうち最初の二つのバリエーションにおいては、作者は他者の言葉を自分自身の意図を表現するために利用する。それに対し、三つ目のバリエーションにおいては、他者の言葉は作者の発話の枠外にとどまっているのだが、しかし作者の発話は他者の言葉を考えに入れ、それと関係づけられているのである。(p.393)
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そこ(パロディー)では作者は、文体模写におけると同様、他者の言葉を話すのではあるが、文体模写とは違って、その言葉の中に、他者の方向性とは真っ向から対立する意味的方向性を持ち込む。(p.390)
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主人公の自分自身に対する関係は、彼の他者に対する関係および他者の彼に対する関係と不可分に結びついている。自意識はいつでも自分自身を、彼についての他者の意識を背景として知覚する、つまり、《自分にとっての私》は《他者にとっての私》を背景として知覚されるのである。したがって主人公の自分自身についての言葉は、彼についての他者の言葉の間断なき影響のもとで形成されるのである。(p.420)
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第三タイプの言葉の様々な現象には、それが文体模写であれ、[語り手による]叙述であれ、一人称の叙述であれ、いずれそのすべてに共通する特徴があって、どの現象もその特徴のおかげで第三タイプの独特なバリエーション(第一バリエーション)を形成しているのである。この特徴とは、作者の意図が他者の言葉を、他者の文体自体の課題にそって模写するのであり…作者の意図を自分の中で屈折させながらも、けっして自分の道から逸脱することはなく、自分自身に真に固有の調子とイントネーションとを手放さないのである。…作者の思想は、他者の思想と衝突することもなく、その思想の方向にそってその思想に追随しながら、ただその方向性を条件づきのものとするに過ぎないのである。(p.389)
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文体模写はある文体の存在を前提としている。すなわち文体模写は、自分が再現しようとする文体的手法の総体が、かつては直線的で直接的な意味作用を持ち、最終的な意味決定権を発揮していたことを前提としているのである。だから、文体模写の対象となり得るのは、第一タイプの言葉だけである。文体模写は,他者の指示対象的な意図を、自分の目的のために、つまり自分の新しい意図のために役立たせようとする。文体模写の実践者は、他者の言葉を他者のものとして用いながら、同時にその言葉に客体化の影をうっすらとかけてやる。…客体化の影の一部は,特定の視点そのものに投げかけられることになり、その結果その視点そのものが条件づきのものと化してしまうことになる。条件づきの言葉ーそれは常に複声的な言葉である。条件づきの言葉となることができるのは、かつては無条件の真剣な言葉だったものだけである。この本来の直線的で無条件な意味が、今度は新しい目的のために奉仕することになり、その新しい目的が内側からその意味を支配し、それを条件づきのものとしようとするのである。この点において、文体模写は模倣から区別される。模倣は形式を条件づきのものとすることがないが、それは模倣自体が模倣されるものを真面目に受け取り、それを我がものとするからであり、他者の言葉を直接的に消化吸収していまうからである。…文体模写に類似したものとして…語り手による叙述がある。…しかしこの場合は文体模写の場合に比べて、語り手の言葉に射している客体化の影ははるかに色濃く、一方条件づきの性格ははるかに弱められている。…それでも純粋に客体化された語り手の言葉というものは絶対にあり得ない。…(作者は語り手の言葉を)多かれ少なかれ条件づきのものとするのである。(p.382〜384)
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人間とはけっして自分自身と一致しない存在である。…人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身といっちしないこの一点なのである。つまり何の相談も受けず、《本人不在のまま》盗み見られ、決めつけられ、予言されてしまうような事物的存在の枠を、彼ら抜け出そうとするその点なのである。人格の真の生を捉えようとするなら、ただそれに対して対話的に浸透するしか道はない。そのとき、真の生はこちらに応え、自らすすんで自由に自己を開いてみせるのである。(p.122〜123)
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こうした現象(文体模写、パロディー、説話、対話)にはすべて、相互の本質的差異にもかかわらず、共通の特徴がある。それは、こうした現象において言葉は二つの方向性を、すなわち普通の言葉として発話の指示対象へ向かう方向性と、他人の言葉へ他者の発話へと向かう方向性とを持っているということである。(p.374)
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主人公が自らに事態を説明しながら…到達する《真実》とは、ドストエフスキーの目から見ればそもそも、恐らくはこの人物自身の意識にとっての真実に過ぎないのである。それは自意識に対してニュートラルではあり得ない真実なのだ。(p.115)
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モノローグ的な構想において主人公は閉じられており、はっきりとした意味上の輪郭で囲まれている。彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり現実の人間として決定された自己イメージの枠内で行なわれるのである。…このような世界が成立するためには、確固たる外部の立場、確固たる作者の視野が存在することが前提とされる。主人公の自意識は…彼を規定し描写する作者の意識の鞘に収められ、そのうえで外部世界の確固たる基盤の上に置かれているのである。(p.107)
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ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界がなんであるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである。…そこで解明し性格づけるべきものは、主人公という一定の存在、彼の確固たる形象ではなく、彼の意識および自意識の総決算、つまりは自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な言葉なのである。したがって、主人公像を形成する要素となっているのは、現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴ではなく、それらの特徴が彼自身に対して、彼の自意識に対して持つ意味なのである。(p.100)
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ドストエフスキーが多次元性や矛盾性を発見し、理解することができたのは、精神においてではなく、客観的で社会的な世界においてなのである。この社会的な世界においては、複数のレベルとはそれぞれ何らかの段階を示すのではなく、対立し合う複数の人間集団を示すのであり、それぞれの間の矛盾した関係とは、人格がたどる上昇・下降の道程ではなく、社会の状況を表しているのである。つまり社会的現実の多次元性と矛盾性が、時代の客観的な事実として提示されているのだ。…ドストエフスキーの芸術的ヴィジョンの基本カテゴリーは、生成ではなく、共存と相互作用だったということである。…様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えたうえで、劇的に対置し対決させようとする。(p.56〜57)
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