なぜ運慶がこれほど有名なのか?その答えを出す前に、この本では、運慶について基本的な理解をもっていただくための材料を提供したいと思います。
とりあげた作品には、いままでに運慶の作品であることが確定しているものだけなく、わたしがどうしても運慶作品であると考えたい作品をくわえています。また、これまでの研究で運慶の生涯についてはどんなことがわかっているのか、そして運慶の作品にはどんな秘密が隠されているのか、これらのことをなるべく平易にお話ししたつもりです。-「はじめに」p.5-
とりあげた作品には、いままでに運慶の作品であることが確定しているものだけなく、わたしがどうしても運慶作品であると考えたい作品をくわえています。また、これまでの研究で運慶の生涯についてはどんなことがわかっているのか、そして運慶の作品にはどんな秘密が隠されているのか、これらのことをなるべく平易にお話ししたつもりです。-「はじめに」p.5-
--出典: 運慶にであう (アートセレクション)
いわゆる「戦後前衛芸術史」として、年表に括られる「九州派」は、いかにも新しい芸術の動向に疎い、地方特有の土着思想にまみれた、政治性の強い芸術集団のようにとられるが、しかし芸術運動を社会の動静が生み出す一つの新しい文化の顕現と見るならば、これほど当時の社会の実態を深く映しとった芸術集団はないのである。-新装版発刊によせてp.6-
--出典: 反芸術綺談
科学としての心理学は数学、物理、化学と同じはずであるが、具体的な人間心理を扱う分野に入り込めば入り込むほど、その学説は提唱者の性格と生活とに密接な関係をもってくる。とくに、精神分析の理論はフロイト自信を離れては考えられない。
たとえば、フロイトは男の子が父を憎んで母を愛する傾向をもつこと、この傾向が心のなかにエディプス・コンプレックスとして存続していることを主張したが、このような考えの由来はフロイトの伝記を読んで始めて了解しうるであろう。-宮城音弥「まえがき」p.3-4-
たとえば、フロイトは男の子が父を憎んで母を愛する傾向をもつこと、この傾向が心のなかにエディプス・コンプレックスとして存続していることを主張したが、このような考えの由来はフロイトの伝記を読んで始めて了解しうるであろう。-宮城音弥「まえがき」p.3-4-
グリム童話を聞いたり読んだりして、人が幼いころから、無意識のうちに、さまざまな精神の可能性になじむのは、意味の深いことです。そうした可能性を展開し、統合することができれば、人は成熟に達することができるでしょう。そういうわけで、わたくしは、グリム童話は子どもの本としてふさわしい、と思います。-第6巻解説「グリム童話は人間の可能性に対応する」p.307-
--出典: 完訳グリム童話集〈1〉 (ちくま文庫)
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則とを探求する学問である。
しかしその本態とか、法則とかいうものは、あくまでも科学の眼を通じてみた本態であり、また法則である。それで科学の真理は、自然と人間との協同作品である。
もし自然界に、人間をはなれて、真理というものが、隠されているならば、それを発掘すれば、それでおしまいである。もちろん宝はたくさん隠れているので、一ぺんでおしまい、ということではない。しかし数多くの宝の中から、一つずつ見つけていけば、手の中に握った真理が、だんだんふえていき、未知の分が、それだけ少なくなる。もしこういうものならば、科学はいつか、宇宙の真理を全部見つけてしまうであろう。
しかし科学の真理が、自然と人間との協同作品であるならば、科学は永久に進化し、変貌していくものである。-結びp.197-
しかしその本態とか、法則とかいうものは、あくまでも科学の眼を通じてみた本態であり、また法則である。それで科学の真理は、自然と人間との協同作品である。
もし自然界に、人間をはなれて、真理というものが、隠されているならば、それを発掘すれば、それでおしまいである。もちろん宝はたくさん隠れているので、一ぺんでおしまい、ということではない。しかし数多くの宝の中から、一つずつ見つけていけば、手の中に握った真理が、だんだんふえていき、未知の分が、それだけ少なくなる。もしこういうものならば、科学はいつか、宇宙の真理を全部見つけてしまうであろう。
しかし科学の真理が、自然と人間との協同作品であるならば、科学は永久に進化し、変貌していくものである。-結びp.197-
--出典: 科学の方法 (岩波新書 青版 313)
昨今の『失敗好み』は作品の欠陥、とりわけ醜さしか天才的と看做さない風潮がある。
(……)きっと、ラファエロ的な完璧さなどはまったく彼ら(いまの疑似耽美主義者)の注目を惹かないのだ。ラファエロに倣いたくてアングルはため息をつき、アングルとしての作品しか創らなかった。ラファエロは古代文明に倣いたくてため息をつき、それを追い越せた。私はときどき真剣に思う。「アングルに倣いたい」、するとブーグローふうになる!にもかかわらず私は、どうしようもないほどダリである。-「失敗好みの現代アート」p.18-
(……)きっと、ラファエロ的な完璧さなどはまったく彼ら(いまの疑似耽美主義者)の注目を惹かないのだ。ラファエロに倣いたくてアングルはため息をつき、アングルとしての作品しか創らなかった。ラファエロは古代文明に倣いたくてため息をつき、それを追い越せた。私はときどき真剣に思う。「アングルに倣いたい」、するとブーグローふうになる!にもかかわらず私は、どうしようもないほどダリである。-「失敗好みの現代アート」p.18-
この異様な近代芸術批判は滔々とながれるモダン・アートのあらゆる抽象的傾向と、かつて有力な拠点であったシュールレアリスムとに対して、ダリ独自の逆説的立場を主張したものである。-瀧口修造「訳者ノート」p.127-
--出典: 異説・近代藝術論
(……)わたしは日本美術の国粋主義的な見方には与せず、”いかなる国家や民族の美術も孤立した現象ではありえない”とフェノロサが、かれの本の冒頭でいっていることの意味を重視する。しかし美術はどこへいっても同じ顔つきをしているわけではない。あたかも気流のように、国境などおかまいなく動き流れ、伝播と交流をくりかえしながら、それぞれの地域の特性に応じて、特有の表情をつくりだすのだ。-まえがきp.ⅱ~ⅲ-
--出典: 日本美術の歴史
(……)一番に価値あるものが知恵であり、それから派生するいくつかのわざが、すぐ後に続き、その一つに、手の働きによっていながら知恵を基本とすべきものがあって、これがすなわち、絵画と呼ばれるわざである。(……)これら最高位の知恵を、なんらかの宝石で飾るすべを心得たいとの思いに、気高さか愛かそのいずれかのゆえに駆られる者なら、誰でもためらわずに取り掛かれるよう、この絵画のわざに従事する一員である筆者に神が与え給うたささかな蘊蓄を、これらの知恵に対して捧げようと思うのである。-まえがきp.2-
--出典: 絵画術の書
本書は、丁々発止の様相を呈していたシンポジウムの記録というパフォーマティヴな側面と、批評あるいは研究というべき沈着なテキスト作業の両面を備えている。これが二〇〇七年という時点での美術批評家連盟の力量を世に問う「作品」たりえていれば、本書の編集を担当したものとして、それにすぎる喜びはない。-水沢勉「編集後記」p.325-
--出典: 美術批評と戦後美術
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