狂気の歴史―古典主義時代における
狂気の古典主義的な経験が生まれる。十五世紀の地平に登場した狂気の非常な威嚇はやわらぎ…。今ではそれらは透明であり、従順であって、止むを得ず理性のお供として後に従っている。…狂人の舟が寿命をまっとうして一世紀ばかり過ぎさると、〈狂人施療院〉という文学上の主題があらわれるのが認められる。…そこでは、それぞれの狂気の型に応じて、整備された居場所、符牒、そして守護神がおのおの定められている。…無秩序の世界のこうした住人たちは、今度はきわめて秩序正しく、〈理性〉の礼讃を口にする。(阿呆船への)乗船に続いてこの《施療院》ではすでに監禁が行われている。…狂気が小説や演劇の虚構作品のなかにきわめてしばしば見いだされることに驚くまい。…狂気は、社会的な景観のなかにきわめて親しみ深いシルエットを描いているのである。…十七世紀初頭のこうした世界は、不思議なほど狂気を大切に保護している。そこでは、事物や人間にとりかこまれて、狂気は、真なるものと空想的なものの目印をごちゃごちゃに混ぜ返す皮肉な徴表であって、大いなる悲劇的な威嚇の思い出をほとんど残していはいない。だが、新しい無理強いが芽生えつつある(p.57-59)
このように真剣さをなくしたからといっても、狂気がきわめて重要であることにかわりはない。…空想が最高潮に達しているとしても、それを出発点にしているからこそ、空想がうちくだかれるのだから。…狂気は、偽りの事件の完了が課す偽りの処罰であるけれども、狂気固有の力によって、真実の問題をうかびあがらせ、その結果、その問題もほんとうに解決されるにいたる。…狂気は、思い違いのもっとも純粋でもっとも完全な形式である。…狂気はまた、演劇の仕組みのうえで思い違いをもっとも厳密な意味で必要とする形式でもある(例:スキュデリー『喜劇役者たちの喜劇』における演劇の演劇)。こうした気違い沙汰を通して、演劇はその真実、幻想である真実をくりひろげる。(p.56-57)
セルバンテスやシェクスピヤでは、狂気はつねに、それには救いがないという点で極端な位置をしめている。狂気はいかなるものによっても、真理や理性につれもどされない。狂気の通路の先には、裂け目、そこからさらに死しか存在しない。…狂気が…突然、知恵を示したことは、「彼が何か新しい狂気にとらえられた」ことにほかならない…結局、死じたいによってしか一刀両断に解決されないものなのである。狂気の消滅は、最期が近づいていることと同じである。…しかしごく速やかに、狂気は…資の領域から離れる。十七世紀初頭の文学では、小説や演劇の作品構造の仕組みのなかに移されてしまった狂気は、真理を表明したり理性を穏やかに復帰させる場合の口実の役目をはたす。その理由は、狂気はもはや、その悲劇的現実において、あの世へ狂気を導く絶対的な悲痛さにおいて考察されずに、ただ単に狂気のもつ幻想の皮肉を通して把握されているからだ。狂気は現実の懲罰ではなく、懲罰の写し、従って見せかけであり、犯罪の仮象や死の幻影としか結びつくことができない。…つまり、狂気が懲罰や絶望となるのは、錯誤の次元においてでしかないのである。(p.54-56)
狂気の最後のタイプとして、絶望せる情念による狂気がある。…(裏切られた恋の)相手がなくなり、ただ一人になってしまうと、狂気の恋心は、空虚な錯乱のなかで自分を追い求める結果になる。それは、みずからの狂暴さに自分をゆだねすぎた情念にたいする懲罰であろうか。おそらくそうだろうが、この罰は慰藉でもあり、埋められることのない相手の不在にたいして、想像上の存在をつくって広くあわれみをかけ、逆説的な無邪気な喜びや英雄趣味の気違いじみた探索を通して、姿を消している相手の形を、ふたたび見いだす。…彼ら(このタイプの狂気を描いたシェイクスピア、セルバンテスら)は…批判的で倫理的な〈非理性〉経験の証人であるよりも、やはり依然として、十五世紀に生まれた悲劇的な〈狂気〉の証人であるに違いない。時代をこえて彼らは消滅しつつある。…ところが彼らの作品および作品が維持しているものを、彼らの同時代人や模倣者たちの場合に生み出されている狂気の意義と比較照合することによってこそ、この十七世紀初頭に文学の狂気経験のなかで進行している事柄が解読されうるだろう。(p.54)
正当な懲罰を与える狂気も、やはり道徳の世界に属する。この狂気は、精神の混乱によって、心情の混乱を罰するのだが、その他の力も持っている。というのは、狂気によって加えられる懲罰は、それが罰しつつ真実をあばくにつれて、あすますその数が増えていくからである。この狂気の制裁には、それが正当であるという特色がある。正当というのは、すでに罪人は、幻影がむなしく渦巻くなかで、将来ずっと自分に加えられる懲罰の苦痛を感じているのだから(例:『メリット』)。…正当であるという別の理由は、すべての人の目に隠されている犯罪が、奇異な懲罰が加えられる夜に、明るみに出るからであって、…狂気が自分の事態を打ち明け、妄想のなかで自分の秘密の真実をのべ、良心のかわりに叫び声をあげてしゃべりだす(例:『マクベス』)。(p.53-54)
この第一の狂気と隣接するのが、無益な傲慢から生まれた狂気である。だが今度は、狂人が同一化する対象は、ある文学上の規範ではなくて、狂人自身なのであり、しかも想像上の同意のはたらきによって、狂人に欠けているあらゆる長所、あらゆる力が自分に貸与されているような気持ちになるのである。…これは、どんな人間の心にもある、自分との想像上の関係である。人間のもっとも日常的な欠陥が生まれるのも、この種の狂気のなかであり、それを摘発することは、あらゆる道徳批判の最初にして最後の領域である。(p.53)
十六世紀末と十七世紀初頭…の文学は、自己を探求する理性を制御しようと務めながら、狂気の現存、理性の狂気の現存を認知し、それを取り囲んで攻め、最後にはそれを征服する一つの芸術である。バロック時代の動き。…まず第一は、空想的な同一化による狂気…。さまざまの空想が作者から読者へ伝えられるわけだが、前者では幻想だったものが後者では心象となり、作家の巧妙なやり口がごく素直に現実の姿として受け入れられる。…芸術作品における現実と想像の関係についてや、またおそらく、幻想的な虚構と錯乱のもたらす魅惑のあいだにある混沌とした交渉についての不安感がそっくり見られるのだ。「芸術の創出は、錯乱した想像力の賜物である。画家や詩人や音楽家の思いつきとは、彼らの狂気をいいあらわすために礼儀上、手加減がくわえられた名称にほかならぬ」(p.52-53)
[2]狂気は、理性の諸形態そのものの一つとなる。狂気は理性の一部になって、その秘密の力の一つ、あるいは理性のあらわれの契機の一つ、あるいは理性が自分を自覚する逆説的な形式の一つを構成する。…真の理性は、痴愚とのどんな係わり合いをも免れるわけにはいかない。それどころか、それは痴愚によって示される道をえらばねばならないのである。…この道がゆきつく先には、どんな最終的な知恵もないとしても、この道が約束する至福の城が実は蜃気楼と新たな痴愚にすぎないとしても、この道はそれ自体としては知恵へいたる道なのである。まさしく、それこそ痴愚へいたる道であることを心得つつそれをたどっていく場合には。…この痴愚(狂気)をどこに位置づけるべきかというと、理性じたいのなかに、理性の諸形態の一つとして、恐らくは理性の支えの一つとして位置づけるほかあるまい。…「狂気の混ざらぬような偉大な精神は存在しない。…そういう意味で、賢者ともっとも優れた詩人たちは気がふれたり、時には激昂することを容認したのであった」…しだいに狂気は無力にされ、…理性によって取り囲まれている狂気は、理性のなかに、いわば受け入れられて植え込まれたようになる。…理性に内在的な狂気の発見、つぎに、そのことに由来する二重性…。この二重性とは、一方では、理性に固有な狂気を拒否し、それを排除しつつもそれを倍加し、その倍加によって、狂気のなかのもっとも単純でもっとも閉じられもっとも無媒介な狂気に陥っている《狂った狂気》であり、他方では、理性のもつ狂気を受け入れ、それに耳をかたむけ、その市民権を容認し、その激しい力の侵入をそのままにしている《おとなしい狂気》である。…今や、狂気の真理はもはや理性の勝利およびその決定的な制圧とまったく同じ…。狂気の真理とは、狂気が理性にとって内的であり、いっそうよく自分を確保するために理性の一形姿・一つの力・いわば一つの必要である、という点にある。(p.49-52)
批判的考察の特権は、いかにして十六世紀に組み立てられたのだろうか?
[1]狂気は、理性と相関的な形式になる。あるいはむしろ、狂気と理性は、相互にいつまでも置換しうる関係をもつにいたる。この可逆関係によって、どんな狂気も、判断し統御してもらえる理性をもち、どんな理性も、理性がそのなかに自分のわずかな真理を見いだすような狂気をもつことになる。…両者はともに相手を否定しあうが、相手に根拠をおいている。神の見るところでは世界は狂気であるという古来のキリスト教的主題が、十六世紀に、こうした相互性の厳密な弁証法のなかに若返る。…神に近づくために狂気から離れようと努める動きもまた、人間の次元では狂気である。…神の知恵は長い間ヴェールをかけられていた理性ではなく、測りしれない深みである。…知恵の中心そのものがあらゆる狂気のめまいであれと願う主要な矛盾のしるしによって、たえず矛盾しあうことをやめない。…神の〈知恵〉と比べると、人間の理性は狂気にほかならなかった。人間のうすっぺらな知恵とくらべると、神の〈理性〉は痴愚神の大いなる動きのなかに含まれる。大きい尺度ではかると、すべては〈痴愚神〉の仕業にほかならず、小さい尺度ではかれば、〈すべて〉はそれじたい狂気なのである。すなわち、狂気は理性との係わり合いによってしかけっして存在しないけれども、理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。…狂気は…理性との相対性によってのみ実在し、その相対性のおかげで理性と狂気は相互に救いあうことによって、相互に相手を失ってしまう。(p.46-49)
あの幻惑するさまざまの形態に近接した宇宙的にひろがる狂気経験と、諷刺という横切りがたい距離をおいたうえでの、同じ狂気についての批判的な経験、これらの対立の図式…。…これらの対立はそれほど顕著でもなく表面的でもなかった…。…双方から派生したものは交錯しあい…。…多くの相互干渉がなお見られるとはいえ、狂気経験の例の二つの形式への分割は、すでにおこなわれていて、両者の距離はもはや拡がるばかりである。宇宙的ヴィジョンをもつ形象と道徳的省察の動き、悲劇的要素と批判的要素、それらは今後ますます離れるだろう…。…十五世紀の絵画では、世界の悲劇的な狂気として展開される。その一方では…狂気は言説の世界を通して把握されている。…狂気は知恵に屈服しなければなるまい。狂気が自己正当化をおこなう場合の言説は、人間の批判的意識にしか属さない。文芸復興期の初頭、狂気について感じられ形づくられたすべては、批判的意識と悲劇的経験のこうした対立によって活気づけられてきた。だが、この対決は急速に消えさり…。…狂気の批判的意識は、ますますはっきりと解明されつづけたが、その一方では、狂気の悲劇的な形象はしだいに暗闇のなかに没入していった。…十六世紀には、(悲劇的意識の)根本的な絶滅ではなく、その隠蔽が重要になる。批判的に意識にあたえられた独占排他的な特権が狂気の悲劇的で宇宙的な経験を隠蔽したのである。…狂気の批判的意識の下部では、…悲劇的意識が目をさまし続けていたのである。(p.42-45)
文学や哲学のような表現領域では、狂気経験は、十五世紀に、とりわけ道徳的な諷刺の傾向をおびている。例の画家たちの想像力につきまとっていた、侵入してくるようなあの激しい威嚇の調子を想起させるものは、ここにはすこしもない。反対に、そうした想像力を遠ざけるように気が配られているし、そのことは話題にされない。…賢者は、笑いの力をかりることによって、その世界(快い幻想)と一定の距離を保てるのだ。…もはや狂気は、世界の親しむ深い奇怪さではなく、単にそれは、外来の観客にはっきり理解される見世物にすぎないのだ。もはや、宇宙のひろがりという形姿ではなく、時の流れという特質をおびる。(p.41-42)
同じ時代に、文学や哲学や道徳では、狂気(痴愚)の主題は、まったく別種の発想から生まれている。中世紀には、狂気は悪徳の階層秩序のなかに組み入れられていた。文芸復興期になると、狂気はこうしたつつましい地位を離れて第一の地位を占めるようになる。…原罪をせおう人間のそれは根本に傲慢の罪があったのにたいして、今では狂気が…人間のあらゆる弱点を指揮しているのである。…狂気の絶対的な特権。人間のなかにある悪のすべてを狂気が支配している…。だがそれは、人間がなしうるいっさいの善、欲、哲学者や学者に活力を与えるぶしつけな好奇心、こうしたものを間接的に支配していないだろうか。…狂気は例の知がたどる奇異な道と何かつながっているに違いない。…(根拠:狂人のまとうマントをひっかけた学者の挿絵版画の例)…知が狂気のなかでこんなに重要な役目を果たすのは、狂気が知の秘密を保持しうるからではなく、反対に、無秩序で無益な学問に対する懲罰となっているからだ。狂気が認識の真理であるのは、認識のほうがとるにたらぬものとなっているからであり、経験という偉大な〈書物〉に訴えかけずに、ほこりをかぶった書籍や役にもたたぬ議論のなかに埋もれているからである。学問自体が…痴愚(狂気)に陥っている。(p.38-40)
文芸復興の地平への狂気の登場は、まず最初にゴシック的な象徴主義の衰退を通して認められる。…言いあらわし、思い出させ、教化することをやめて、もはやその幻想的な現存のみを…表現する。画像は、知恵から、そしてそれを支配していた教訓から解放されたいま、重心のようなそれ自身の狂気の周りをまわりはじめる。…中世紀にも親しまれた名高いグロテスク図柄…罪悪に夢中になった精神の堕落をあばいていた。ところが十五世紀になると、人間の狂気の画像であるグロテスグ図柄は、数多くの誘惑のなかの特権的な形象の一つとなる。…十五世紀の人間には、自分の夢想の、おぞましくさえある自由と、自分の狂気の幻影のほうが、生身の人間の欲望をかきたてる現実よりもはるかに多くの魅力があった。(p.34-36)
十五世紀の後半に入る以前…死の主題だけが支配的だった。…狂気の主題が死の主題にとってかわったということは、両者の裂け目よりもむしろ、同じ不安のなかでの一つのゆがみを特徴づける。…かつては、死という終焉が近づきつつあることを全然認めないのが人間の痴愚(狂気)だったし、死を見ることによって人間を知恵にたちかえらせねばならなかった。ところが今では、知恵はいたるところで痴愚を摘発することになるだろう。人間たちがすでに死者以上の何ものでもない点、終焉が近いかどうかは普遍的となった痴愚がもはや死それじたいと同一でしかなくなるその程度に応じてである点を彼らに教えることに存するだろう。…十五世紀には、狂気と虚無のこの絆がきわめて密接にむすばれているので、それは長らく存続し、古典主義時代の狂気体験においてもなお見いだされるだろう。(p.31-33)
小話と教訓劇の文学。…人間の悪徳や欠陥を…高慢や慈愛の欠如やキリスト教的な善行の閑却などに結びつけないで、一種の大いなる非理性に…結びつけている。狂気の摘発が批判の一般的な形式となる。〈笑劇〉や阿呆劇では、〈馬鹿〉や〈間抜け〉や〈阿呆〉の人物がますます重要さをます。この種の人物は…真実の保持者として舞台の中央に位置を占める。…狂気が、各人を盲目状態にさそいこみ、身を滅ぼさせるのに反して、馬鹿は各人にその真実を思い出させる。…高尚な文学においても、〈狂気〉は理性と真理が働いているその核心において作用している。…狂気はまたアカデミックな仕事にも用いられている。それは論説の対象であり…これらすべての論説に対して、他方…ジェローム・ボッシュから…ブリューゲルにいたる画像の長期間の支配時代がある。(p.30-31)
西洋の想像力のなかで狂人の航行が大昔からかくも多くの主題とつながっていたのに、なぜ十五世紀ごろ突如として、この主題が文学と画像のなかで急激に表明されるのか?…その理由は、この船が、中世末期のころヨーロッパ文化の地平ににわかに起こった一つの不安をそっくり象徴するからである。狂気と狂人は、威嚇と嘲笑、世界のもっている、目がくらむほどの非理性、人間のちっぽけな愚かさという多義的な姿をした中心人物となる。(p.30)
文芸復興期の空想上の風景のなかに、ひとつの新しい事物が出現し、やがてそれは特権的な位置を占めるようになる。…阿呆船…〈アルゴ船物語〉という古い作品から借用されたに違いない文学的創作であって…そうした船に関する創作が流行する。…これらの空想的あるいは嘲笑的な船のうち、阿呆船だけが現に実在した唯一の船である。実際、気違いという船荷をある都市から別の都市へはこんでいた船が実在したのだった。…重要な都市では、相当な人数の狂人が…連れて来られ、出身地の町をみずからの存在で浄化し、連れてこられた先で「放たれた」のだと考えられるだろう。…狂人たちのこの往来、彼らを放逐する行為、彼らの出発と乗船、こうした事態は単に社会的効用や市民の安全という次元だけの意味をもつにとどまらない…。宗教儀礼にいっそうつながっている他の意味もたしかに現存していた…。(p.25-27)
癩病のあと、その中継として登場するのは、まず性病だった。突如として十五世紀末…あとをつぐのである。…しかしながら、中世文化のなかで癩病が果たしていた役割を、古典主義時代の世界でちゃんと引き受けるようになるのは、性病ではない。最初の間こそこうした排除措置がとられたけれども、性病はやがて他の病気にまぎれこむ。…癩病の正真正銘の遺産相続を探すべき場所は、性病などではなくて、きわめて複雑な現象のなかであって…この複雑な現象とは、狂気である。しかしながら、この新しい強迫観念が、一世紀にわたる恐怖のなかで癩病のあとにつづき、それと同じように分割・排除・浄化という反作用…を起こさせるためには、二世紀近くの長い潜伏期間を必要とするだろう。十七世紀なかばごろ、狂気が人間によって統御される前まで、狂気のために古い祭式が復活される前までは、狂気は文芸復興期のあらゆる主要な経験と頑固に結合されてきたのである。(p.24-25)
中世末期になると、癩病は西洋世界から姿を消す。…それはおそらく…十字軍時代が終わったあと、近東諸国の伝染病流行地帯との交渉がとだえたために起こった帰結でもある。癩病は姿を消し、あの汚辱の場所とあの祭式—それらは癩病を防止する役目ではなく、神聖な距離をもうけてそれを維持し、逆方向の興奮によってそれを固定する役目をあたえられていた―を、用事がなくなって見棄ててしまうのだ。おそらく癩病よりも長期間のこりつづけるもの、…それは癩病患者という人物に結びつけられてきた、さまざまの価値およびイメージである。それは患者幽閉の意味であり、社会集団におけるこの執念深く恐ろしい人物像の重大性であって、人々はそのまわりを神聖な輪でつつんだのちにはじめて、この人物像を遠ざけるのである。(p.21-23)
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