kawademan
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暮らしの中の文化人類学 平成版
グーグルの創業者のセルゲイ・プリンとラリー・ペイジ、アマゾン・ドット・コムの創業者のジェフ・ペゾス、ウィキペディアを始めたジミー・ウェールズなどがモンテッソーリ教育を受けたことはよく知られている。卒業生は概して知的好奇心が強く、権威が嫌いで、人から指示・命令されることを好まず、パラダイムを叩き壊してブレイクスルーをする傾向が指摘されている。(p85)
--出典: 暮らしの中の文化人類学 平成版
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鈴木先生 5 (アクションコミックス)
容赦ない他者の眼差しが交錯するストレスフルな日常に立ち向かうためには、結局、自分を鍛えるしかない。でも、どうすればよいのか。人と、そして自分の心と、どのように折り合いをつければよいか。大人にも、子供にも、今もっとも処方箋が必要とされているこれらの難題に、これほど誠実に真正面から向き合った漫画を私は知らない。(ノンフィクションライター最相葉月:巻末解説より)
--出典: 鈴木先生 5 (アクションコミックス)
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鈴木先生(11) (アクションコミックス)
演劇指導で教わったよ…

一見クールでものを良く見ていると自分でも誤解しがちな虚無主義は…
自分の気に入ったそれっぽい他人の文言を神聖視して…
ものごとの一面しか見ず…
そんな自分の体験と実感を絶対視して葛藤から逃れているということでは
楽観主義者と同じ「盲信」と「思い込み」の住人に過ぎないって…

何事も鵜呑みは危険だし…
何に対しても疑いの目を向ける「留保」の心は大切だけど──
「そんなことあるはずない」って
感情レベルで不信感の奴隷に成り下がってしまったら
それはそれでやっぱり「盲信」になってしまう

常に葛藤しているだけでも
やっぱり経験は偏ってしまう!

だから…時には
いったん疑いを完全に捨て去るテクニックも必要だって…

なぜなら迷いを捨てて
一心に打ち込まなければ開かない扉も存在するから

そしたらね…
ある子が先生に言ったんだ…
「先生…演劇って実際(リアル)の人生よりめんどくさくて難しいんだね」って…

そしたら先生こう言ったの…
演劇で要求される面倒で困難なことの多くは…実は
実人生でも本来要求されていることなんだって

実人生の多くが
芝居よりたいがい面白くないのは──

実人生が芝居より面白くないものだからじゃなくて──
たいていの実人生が「つまらない芝居」と同じく
出演者やスタッフたちの工夫や努力…
熱意や研鑽が足りないか 的をはずしているからに過ぎないのかもしれない…

(『鈴木先生』第11巻 小川蘇美のセリフより)
--出典: 鈴木先生(11) (アクションコミックス)
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鈴木先生(11) (アクションコミックス)
「中学の生徒たちに一教師という立場で語る」という著しい言語的制約を課した上で、言葉の力をこれほどに信じて進められていく物語は希有であろう、という点だ。本編の主人公・鈴木先生が子供たちに訴えつづけているのは、知ることではなく、自ら考えることの大切さである。
そして一人一人が考え、さらには互いの考えをぶつけあうことで、年齢、性別を超えて、いついかなるときであってもそこに神経を集中させねばならぬ、「自分とは本当は何者であるのか?」という唯一無二の命題に誰もが立ち向かっていけるようになる──作者の武富氏は本作を通して繰り返しそう語っているように思える。(解説:白石一文より抜粋)
--出典: 鈴木先生(11) (アクションコミックス)
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市民の日本語―NPOの可能性とコミュニケーション (ひつじ市民新書)
基本的に人は、自分と同じことを他人の中に確認して喜ぶという性質をもっています。自分と同じものを相手に発見して「ああ一緒なんだ私たちは」ということで喜ぶということは、同質性を確認した瞬間に、何か異質なものを排除しているんです。<略>異質性を他人の中に発見してそれを排除するのではなくて、自分の中に発見してそれを受け入れるというプロセスを見つけないと、永遠に同質性を発見して異質性を排除するという構造から、悪循環から、人間は自分を相対化できない(p198)
市民の日本語―NPOの可能性とコミュニケーション (ひつじ市民新書)
私たちの状態は「世間はある、社会はない」という状態なので、世間が崩れると社会規範がなくなってしまうということです。そしてもともと個人はないわけですから、社会性ゼロの「自己チュー」が増える。つまり世間のなかで、世間を基準に生きるという基準やルールしか教えられていないために、世間がなくなっちゃったから社会性はないわけです。<略>自己チューは、もともと世間に必然なもので、これが今非常に増えている。これは対話が成り立たなく大きな原因の1つなんです。この人たちは人の話を聞かない。仲間内の会話しかできない。(p182)
自分を愛する力 (講談社現代新書)
なぜ僕は生まれつき手足がないという障害を「受けいれ」「苦しむことなく」、ここまで人生を歩んでくることができたのか。僕なりに考えてみると、“自己肯定感”という言葉にたどりついた。自己肯定感とは、「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」と、自分自身のことを認める気持ち。この“自分を愛する力”が、何より、僕自身の人生の支えとなってきたように思うのだ。
では、僕はどのようにして、この自己肯定感を育んできたのか、どのようにすれば自己肯定感を育んでいくことができるのか。本書では、僕を育ててくれた両親の子育て、また僕自身の子育て、さらには小学校教諭として子どもたちと向きあった経験から、僕の「明るさのヒミツ」を解きあかしていきたいと思う。(「はじめに」より)
--出典: 自分を愛する力 (講談社現代新書)
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すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)
「肚(はら)を見せる」というのは「相手に対して、みんなに対して、今の自分を開示する」ということです。それは「ただホンネを言う」のとは違います。
 あなたは彼女の前で、みんなの前で、なるべく「自分を見せる」のです。
 それはあなたが見せたい自分、かっこつけた自分を「こういう自分だ、こう受け取ってほしい」と押しつけるのではなく、弱いダメな自分を「許してほしい」と押しつけて甘えるのでもなく、そういう自分は「醜(みにく)い……」と自己嫌悪するのでもなく、ただ「自分を見せて」それがどう受け取られるかは「相手にまかせる」のです。(p138)
すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)
「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聞いたことによって)変わる」つりもりがあって話を聞いてるかどうか、あなたの側に【変化する気が】あるかどうか、ということです。
 それは、変化する【勇気が】あるか、ということでもあるでしょう。
 〈略〉
 相手の話を「自分が変わることをおそれず」ちゃんと聴くことができると、それは【コミュニケーション】になっていきます。(p135)
すべてはモテるためである (文庫ぎんが堂)
対話とは、相手の言っていることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。それから「自分の肚(はら)を見せる」ことです。〈略〉「対話できる」ということが、つまり「相手と同じ土俵に乗れる」ということなんです。(p132)
女子と就活――20代からの「就・妊・婚」講座 (中公新書ラクレ)
30代で婚活中の女性がこう言っていました。
「名刺とか肩書きを抜きにして、もう人を見ることができない。お互いになんにもない学生時代に出会いたかった」と。
学生時代はまだ何者でもない季節。不確定ではありますが、相手の本質を見ることもできます。(p.273)
現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
現在の就職活動が学生に与える多大な負担とプレッシャーを与えていることについては、様々な媒体で論じられてきた。〈中略〉しかし、就職活動が学業に与える悪影響がフレームアップされた結果、負担軽減、ひいては就職活動のあり方の議論が、「学生の勉強時間を担保する」(下村博文文部科学相)ために、いつ企業による就職活動を「解禁」するか、という点に矮小化されてしまっている観がある。(p142,橋口)
--出典: 現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
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現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
かくして、一方で、組織の外に放り出され、職場という「居場所」を失う者がいる。「企業社会」では、家庭、学校、会社が相互に補完しながら経済成長を支え、それらの制度の外に自主的なコミュニティが育ちにくかった。そのために、会社組織から外に出ても(出されても)労働市場を器用に泳げない者は、家庭や学校に引きこもるしかなく、それすらできない者は、「バーチャルな世界」以外に、支え合ったり存在を認め合ったりする場を失うことになる。他方で、組織に正社員として残れたとしても、僅かばかりの「あそび」は一掃され、物理的・精神的な「余裕」は失われている。強引な「組織改革」は職場に混乱をもたらし、過重な負担が労働者に押し付けられている。(p118,伊藤)
--出典: 現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
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現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
戦後の福祉資本主義は、なかでも日本の「企業社会」は、国民を「社会」に統合する形で発展を遂げたのである。会社とは、大企業のサラリーマンにとって、新卒で入社できれば自分から辞めない限り定年まで働き続けられると“信じられる”場であり、中小企業の労働者であっても、右肩上がりの経済成長の中でそして企業グループの一員として「ゆたかさ」を享受できると“思える”場であった。そして、「主婦」は夫のサラリーマン生活を家庭で支え、安定した世帯収入を期待することができ、子どもは将来の安定したサラリーマン生活を目ざして、「良い学校」・「良い会社」に入るための勉強に勤しんだのである。
こうして「企業社会」を構成する諸制度が補完し合いながら国民を強く統合し、その制度の一つである会社組織は授業員に「居場所」を提供したのである。(p112,伊藤)
--出典: 現代思想 2013年5月号 特集=自殺論
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現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
給付型奨学金がほぼ存在せず、貸与型の奨学金制度のみでやってきたこと自体が、大学卒業後には正規雇用の職業に就けるということを前提にしています。大学卒業後、どんな仕事に就くか、どれくらいの収入が得られるのかわからないうちに借りるのですから、住宅ローンよりもはるかに危険度の高いものです。(p81,大内)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
本当に上のほうの強い個人の層だけに選択肢が広がっただけだとしても、それを適切にというか、既存の構造を壊す方向で行使する人がもっと増えてくれば、全体の構造が少しは揺らぐのではないかとも思っています。そういうことを考えなければ、本当に展望がなくなってしまいます。そういった選択肢の行使が、上の層から真ん中の層へと延びて、下の層も少しは恩恵にあずかれるような社会的な仕組みがつくられるしかないのではないか。
〈中略〉
そして大学の役割はここにあるという気がします。大学まで来ても非正規でしか働けないかもしれませんが、社会や会社を批判的に見る能力を獲得することはできる。そのことは以後のキャリア形成に活かせるかもしれない。〈中略〉こうして世の中を対象化して見られる人、改革的に行動できる人材をどれだけ育成していくことができるかといったところにしか、大学の役割はもはやないだろうと思うのです。(p73-74,児美川)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
近年の新自由主義の下で喧伝されている多様化とは、学校の個性化も含めて、格差の拡大をもたらし、その深刻さを隠蔽する機能を果たしています。〈中略〉多層化している上のほうの層に行けば、確かにかつてよりも選択の自由が広がっている。しかし下に行けば行くほど選択肢が狭まり、ほとんど一つしかない選択肢は劣悪で不安定、過酷ということです。上に上がって行けば少しずつ選択肢が広がり、最上部ではかなりの選択肢が広がっているということが、社会全体に対して選択肢が広がったのだ見せている仕掛けだと思います。どこの層にも選択肢がないのではなくて、選択肢がある人たちも確かにいる。しかし下に行けば行くほど選択肢がないというところを問題化しなければいけないのですが、(p73,児美川)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
最近私は就職活動で内定を取ることよりも、学生が就活うつにならないように気をつかっています。ひたすら就職率を上げるという指導を相対化し始めている大学はよいのですが、依然として「就職は厳しい」とひたすら学生の不安を煽る大学も多数存在しています。学生のプレッシャーは相当のものです。最初の時点で「就活うつ」になる学生もいます。その後、就職活の最中、志望先から落とされるたびに「このままではどこにも受からないのではないか」という不安を感じたり、「落とされる自分はダメな人間だ」と自分を痛めつける学生も少なくありません。(p77, 大内)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
私は高校や中学で講演をするとき、先生たちに向かって「『がんばればなんとかる』というのは若い子たちに対する脅しですよ」と言っています。(p77,児美川)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
一九九二年三月には、高卒者の求人数が一六七万六〇〇〇件ありました。しかし二〇〇三年三月には、高卒者の求人数はわずか一九万八〇〇〇件です。何と八七パーセントも減っている。〈中略〉一六七万から一九万というのは、不景気の影響で減ったというようなレベルの話ではなく、高卒就職が構造的に消滅寸前なっている状況を示しています。大学卒業後の就職率が下がったとしても、それ以上に高卒後の就職が難しい。学費が高くても大学に進学せざるをえない状況に、子どもとその保護者は置かれています。(p72)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
「まずは大学進学を目指し、それが困難な場合には高卒で就職する」という価値のヒエラルキーが崩れ始めている。高校から大学へと梯子が伸びていて、それを昇るとよりよい就職に入れるのではなく、高校卒業後の仕事がないから大学に上がらざるをえない構造が生まれている(p72)
現代思想2012年4月号 特集=教育のリアル 競争・格差・就活
(ある)学生は日本学生支援機構の第二種奨学金を月十二万円ずつ借りていて、卒業後の奨学金返済が心配でうつ病になってしまった。カウンセラーの方が学生に、「なぜ学費が払えないことがわかっていて入学したのか」と聞くと、「学年で成績が七番だったからです」と答えたそうです。カウンセラーの方は、最初は何を言っているのかわからなかったそうですが、どうもその子が通っていた普通科の高校からは、学年の五番以内に入らなければ就職が回ってこないそうです。だから学年で七番の子は大学に行くしかなかった。(p72)
教育と格差社会
マルクスは価値を使用価値と交換価値に分けた。教育世界の使用価値は「市民の育成」や「知的であること」や「教養」や「研究」であるが、交換価値は「単位」や「学位」や「学歴」や「地位」であり、市場原理に従えば、後者が前者を駆逐する。
〈中略〉
生徒は顧客である。生徒は「役立つ」・「売れる」・「有能」という基準で計られる。すると生徒は「単位が取れるか」「卒業できるか」「スキルは」と考えるようになり、受け身になる。思考や真理の探究や理想や創造という価値は軽視される。(p128)
--出典: 教育と格差社会
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教育と格差社会
フィンランドは(PISAランク)読解力一位、数学二位、科学一位だが、教科書を今日の自由裁量にし、統一カリキュラムはあるが全国一斉テストはなく、習熟度別クラス編成や補修はせずに、授業時間数は英米より少ない。
北欧の教育政策は他の社会政策と呼応している。完全雇用を目指し、労働者の権利を認め、福祉を目指す行政だ。たとえ不十分でも、福祉社会に欠点があるにせよ、国民の生活を平準化する努力をしてきた。だから教育行政で、成績別クラスより総合性を、競争や学校選抜より連帯や共同性を、国民や民族意識より地域文化を、テストや成績より学習意欲を、知識の注入より問題解決学習を重視してきた。白教育の重視である。
白教育は社会政策と連動している。競争社会で白教育は極めてしにくい。平準化社会でこそ白教育が有効だ。この点を多くの人が錯覚している。
PISAもテストであり、これが全てではないが、教育再生会議が成績上位のフィンランドに比べ、全て逆の政策をとり、日本より下位にある英米の教育を手本にした理由がわかる。社会政策上、英米はフィンランドとは異質なのだ。
〈中略〉
子どもの学力は国民の貧富の格差と希望の格差をよく表す。日本は英米と同じく競争原理に基づく社会であり、フィンランドのように生活水準の平等化や福祉社会を目指してはいない。再生会議案は成績上位者をあげることに専念し、全体の底上げは狙っていない。
A層に入る「エリート」を選別しようとしているだけだ。イギリスでもアメリカでももともとの成績上位者はテスト成績をさらに上げている。この「実績」を「高く評価」したのが再生会議の提言だ。(p218-219)
--出典: 教育と格差社会
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教育と格差社会
日本でも海外でも若年の非正規労働が常態化し、世界中で若年失業があり、テロや暴動や反格差・反貧困のデモが起きている。IT技術による新産業革命がじわじわと進行しつつある。雇用の絶対数不足の時代に突入したことを前提にして、日頃から「本人の責任ではない」ということを伝えておかねばならない。周囲の大人がこの認識に欠けていたり、高をくくっている場合、就活自殺や就活他殺においやる。(p83)
--出典: 教育と格差社会
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教育と格差社会
教員の商品化は、テストとカリキュラムと学校と教師と事務の面で進められる。
多くの都道府県の高校入試は学校選択の自由のために一区になり、どの高校も受験できる。どの程度の成績でどの高校に入れるかを知るには、業者テストに頼らざるをえない。教育庁も学校もそのデータがないからだ。神奈川県の場合、中三生徒が九万人、一回の業者テストは四〇〇〇円、年五回あるから二万円、それを掛け合わせると一八億円が業者に入る。
〇七年からの全国学力テストは、ベネッセとNTTが請け負った、費用についての報道はない。一人当たり四〇〇〇円かかるとして、全国の小六と中三の三〇〇万人をかけると、一二〇億円となる。この金を誰が出し、誰が受け取るのか。(p20)
--出典: 教育と格差社会
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教育と格差社会
超富裕層をA層、中間層をB層、貧困層をC層とし、さらにその下にほぼ無収入のD層や外国人労働者が加わる。
一人勝ちしているのはA層だが、その姿が見えない。
〈中途略〉
B層はC層を「能力が低い」と蔑んでいる。C層はD層や移民に対して「社会保障費をムダ食いしている」と避難する。C層はB層に「自分と同じ程度しか働かないのに高給を得ている」と妬む。D層はどうしても這い上がれないのを感じとり、世の中に深い怨みをもっている。
B・C・Dの各層が身近な階層を互いに非難している限り、A層は安泰である。これは為政者の心性操作にもよるが、消費社会状況でのセグメント化(個人化)にもよる。社会問題を個人問題にすり替える思考回路が作られている。
この状況で、教育改革と称して「民営化」進められる。先に述べたとおり、教育は庶民に今の生活から脱け出す「希望」や幻想をばらまく。だから「民営化」もしやすい。数十校の校区の全予算を使い、たった一校の中高一貫校を作っても庶民は怒らない。自分の子が入れるかもしれないという幻想を抱くからだ。(p19)
--出典: 教育と格差社会
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現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
小杉礼子編『大学生の就職とキャリア──「普通」の就活・個別の支援』(2007年、勁草書房)は、〈中略〉「大卒者の早期離職の背景」(第五章)について、「新規大卒者の定着率の向上には、大学教育におけるキャリア教育の活性化以上に、各企業における労働条件の向上のほうが大きいのではないかと推測され」という記述は、定着率の低さがキャリア教育導入の呼び水の一つになっている現状において注目すべきものである。(p232,橋口)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
就活中の若者に対して、周囲の親や教師が心がけねばならないことは就活自殺と就活他殺に関することだ。これを防ぐには、日常と緊急の二つがある。これはいじめ被害者を守る方法と同じだ。いじめ加害者は概ね加害者意識が欠如していて、「自分は正規の見方だ」とか「いじめられるあいつが悪い」と思っている。就活自殺や就活他殺の加害者は政府や企業だが「本人が悪い」とか「自己責任だ」と思っている。この言及に加担してはならない。(p83)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
報道によれば、九州産業大学のキャリア支援センターには、正社員の生涯賃金とフリーターの生涯賃金を示す札束の模型が展示されている。正社員とフリーターの格差を視覚化することで学生の就職活動を促そうという狙いとのことだが、あまりにも身も蓋もない。就活に怯える学生がフリーターでもかまわないとして就活から逃げることを阻止して、いま頑張らなければ生涯を通じて悲惨な目に遭うという脅しをかけているわけである。就職率をあげるためとはいえ、学生が受ける精神的圧力は多大であると想像できる。
学生を正社員として就職に後押しする一方で、今日の大学は非正規労働の温床でもある。事務職員や図書館スタッフの非正規課は進んでいる。大学の系列子会社の派遣会社から事務員が派遣されているケースも目立つ。さらに、解雇規制法理の類推適用を回避するために、雇用期限の上限を三年や五年とする雇用慣行が私立大学では一九九〇年代から、国公立大学では独立行政法人化した二〇〇四年から拡がっている。五年で雇い止めにしたとしても、その部署がなくなるわけではないからまたべつの非常勤職員が雇用されて五年で職場を去ることがくり返される。キャリアセンターで大学生に正社員の就職を目指すようにアドバイスするスタッフが非常勤という笑えないケースも珍しくない。九州産業大学のキャリア支援センターで働く非常勤職員は、どんな思いで札束を見つめて働いているのか。 (p213,渡邉)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
「働くべき」というとき、そこで想定されている仕事は何か?「自活し子どもを養うために欠かせない収入源であり、平日のほとんどの時間を費やす主要な所属先」とリジッドに捉えるのであれば、そのような仕事はますます減少しており、より多くの働かない・働けない若者を生み出し続けてしまう。
働くことを、「食いぶちを得ること」や「子どもを持つこと」、「アイデンティティの帰属先であること」などと切り離し、「社会とつながる」活動を幅広くさすものとして、緩やかに構想していく必要がある。たとえば、親元を離れ家族を持ち自活するうえで必要な資金を、たった一つの仕事から得るのではなく、基本的な所得保障といくつかの仕事の組み合わせから得ていけるようにする。所属も多元化し、一枚の名刺やIDカードが「その人が何者か」を明かすのではなく、複数の場や関係性を束ねる結節点として、自己の固有性が証明されるようなかたちにしていく。(p176,貴戸)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
「働かないことが苦しい」という事態は、「働くべき」という価値があらかじめ本人に内面化されていなければ、起こりえない。他者から見て無価値であるだろう己の姿が、自分で「見えて」いるからこそ、「苦しみ」は生じる。これを踏まえれば、「苦しみ」を抱える若者は、すでに十分に「社会的存在」になっていると言える。
日本の青少年行政では、所属を持たず仕事をしていない若者は、「非社会的」と位置付けられてきた。そして、「非社会的」な若者にいかに社会参加を促すか、という問いが展開されてきた。しかし、以上の事例に照らせば、働かないことに苦しみを覚える若者を、「非社会的」とするのは適切でない。本人が十二分に「社会的」であるにもかかわらず、現実の職場に参加することがないとすれば、そこに何があるのか。この点を問うていく必要がある。(p166,貴戸)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
エントリーシートや自己分析が、経団連の労働政策と呼応する雇用調整の手段-方便であることは多くの論者が指摘している。それゆえ「バブル前の『自己発見シート』は簡単に答が出ないように設計されていたのに対し、現代の『自己分析』では、就職活動に勝つためには絶対に答えを出さなくてはならなくなった」。浦川も「自己分析」「個性」という新たな価値観の提示は、アスピレーションをクールダウンさせないための手段であるとしている。(p160)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
筒井(2010)は、文部科学省が企図する「キャリア教育」は、「自己責任論」「個体還元主義的能力観」を助長することで、人間らしく生きていける公正な労働世界を創り存続させていこうとする「希望ある労働者」を形成できないとする。筒井は調査によって、「労働の実態・制度・構造に関する知識の摂取や理解が不足しているほど、成果主義を信奉するほど、労働行政の役割を等閑視するほど、新卒正社員就職に自信があるほど、自己責任論に賛成である」と指摘する。またここで昨今やっと提唱され始めてきた「労働者の権利教育」でさえ、個人主義であれば、自己責任に回収されると警告している。(p148,樫村)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
文科省が大学において推奨しようとしている現在のキャリア教育は、彼ら当事者の若者たちにとって、全く逆の意味をもち始めていることに注意しなくてはならない。大学におけるキャリア教育は、児美川のいう「権利としてのキャリア教育」であれば、朝井のいう、「装置」から外れる思考や想像力の可能性を若者に与えるはずである。しかし実際にさまざまな大学で導入されつつあるキャリア教育にしばしば見られるのは、それが就職課/キャリア支援課の就職支援イベントの延長であり、イベントの授業化・カリキュラム化になっているという事実である。就職コンサルタントが講師となり、どうすれば「employability(エンプロイアビリティ、雇用可能性)」を獲得できるかを講義する。業界人を呼んで、どんな人材を望まれているのかが語られる。もちろん、就職現場を材料にし、業界人とコミュケーションすることは、先述した現実に触れる意味でも重要である。しかし、それが「スムーズに」就職できるための適応の授業となるとき、それは、せっかくの「装置」はずしの契機を疎外する方向へと促進してしまう。(p148,樫村)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
現在の就活システムというものは、若者たちを「体制内馴化」させる、既存の労働市場秩序や社会秩序に歯向かわさせずに、それを受容させる強力な装置として機能しているのではないかということです。ここで言う「就活システム」とは、新卒一括採用のことだけを指しているのではなく、学校教育や大学教育が就活に連動していること、生徒や学生に対して、就活に疑いを持たせず、そこに邁進していくように仕向ける体制を敷いている、ということも含めてのことです。要するに若者たちは、最初から現在の就活にも、いまある偏った働き方にも疑問を持たないように巧妙に「社会化」されているのです。
〈中略〉就活システムに乗らない若者も、現在の就活が体現している価値秩序を「内面化」し、そういうものとして承認しています。これは学校教育の「偉大な」力です。自己責任論に基づいて、乗らない(乗れない)のは自分のせいであると考えているのではないでしょうか。だから「就活への反抗」は、イコール「非正規社員への順応」になるのです。(p92,児美川)
現代思想 2013年4月号 特集=就活のリアル
日本の大学は、自らの「教育」のレリバンス(意義)の「証」を立てる基準をどこにも持ってこなかったのではないかということです。大学における「研究」であれば、学会レベルでの評価等を通じて、自らの研究レベルを示すことができます。しかし、「教育」となるとそうはいきません。大学の学部は、専門教育を行う機関ですから、本当はもっと学生たちが身につける専門性のレリバンス、とりわけ職業的レリバンスによって評価されてよいのかもしれません。しかし、ご承知のように、日本の労働市場は職種別に構成されてはいませんし、それぞれの職とそのランクごとに求められる職業的(専門的)知識やスキルの内容が明示されたりはしていません。だから、日本の大学では、自ら専門教育の職業的レリバンスによって「教育」レベルの「証」を立てるということができないのです。入学難易度や就職実績は、本当はたたの「代理」指標に過ぎません。しかし、代理ならぬ「本体」の指標がないわけですから、これらが脚光を浴び、突出してしまうのではないでしょうか。(p88)
これからを生き抜くために大学時代にすべきこと
経済的な必要性があるならともかく、もしもあなたがお金に困っていないなら、アルバイトはしなくていい。
理由は簡単。アルバイトで得られるものなど、失うものに比べれば、はるかに少ないからだ。
よく、アルバイトは社会勉強になると言う人がいる。それは間違っていない。だが、アルバイトで経験できる程度のことなど、社会人になって三日もすればわかることなのだ。(p96)
これからを生き抜くために大学時代にすべきこと
「江戸時代に同性愛はどう扱われていたのですか。詳しく知りたいです」などと先生に尋ねたりはしなかったはずだ。教科書さえ勉強すればいい、他はいらないと何となく考えていただろうし、無言のうちに「それ以上は考えなくてよろしい」と信じこまされていたのが高校までの勉強なのだ。ちなみに、実は武士の文化は、同性愛抜きには考えられないものだった。「そういえば、ゲイの侍はいたのかな。どんな生活をしていたのかな」、そのような疑問を持ったら、自分で資料を探して答えを見つける。推論する。これが本当の大学の勉強なのである。(p25)
奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち
個性というのは持続する関心である。(p.109)
奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち
「この年、新入生達にアンケートをとったんですよ。“国語が好きですか”という質問に、入学直後に“好き”と答えたのは全体の5パーセント程度でしたが、1年後の同じ質問では95パーセントの生徒が“国語ず好き”と答えてくれたんです。成績が上がるかどうかよりも、まず国語好きになってほしいと始めた授業でしたから、『間違っていなかった』と、とりあえず安堵しましたねえ」(p.98)
ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか (PHPビジネス新書)
ソーシャルゲームという特異な業界の事例から、汎用的で構造的な成功要素の抽出を試み、「ソーシャル・トライアングル」という概念を切り出した。久々に日本企業が生み出した大ヒット、と諸手を挙げて絶賛したいような成功事例である。この火を他のろうそくに灯すことなく、賭博罪やコンプガチャといった規制の波のなかで葬り去ってしまうことに断固反対したい。
最後に仏陀の言葉で幕を引きたい。
「一本のろうそくで何千本ものろうそくに火を灯すことができる。しかし、それで一本のろうそくの火の命が短くなるわけではない。幸福(成功)も分かち合うことで減ることはない」(p218)
ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか (PHPビジネス新書)
「コミュニティをつくり、そこに価値観を根付かせ、ゲーム内アイテムいう無形財に課金してまで獲得する『価値』をつくり出す」という一連のコミュニティ成長プロセスの設計こそが、二一世紀型商材の成功ノウハウなのである。(p41)
ソーシャルゲームだけがなぜ儲かるのか (PHPビジネス新書)
コミュニティ機能をいかに売り手が整え、しかも売り手自身の存在感を消し去り、買い手同士が自律的にコミュニティをつくりあげる環境を設計することができるかどうか。(p191)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
資源と環境を守りながら暮らしを豊かにする。そのためにやるべきことが、ようやく見えてきました。再生可能資源をうまく使いながら、ゴミの出ない生態系に学ぶ。そして「モノとエネルギーはつつましやかに、知識と学習は旺盛に」という新しいライフスタイルを育てていく。これが実践面です。〈略〉
理論面としては、新しいライフスタイルを支援する経済学を育てる、という課題があります。たとえば成長の経済から定常の経済に移るというのもその1つです。定常状態の経済学の建設です。ここでいう定常というのは、物質とエネルギーレベルでのことです。(p55)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
仕事と学習と革新がそれぞれ別のものではなくて、おたがいにつながっていて、その基盤にはインフォーマルな実践の共同体がある。これが新しい時代の組織像です。これをふまえると、組織が創造的であるために必要なことは、創造のための新しいプロジェクトを作るのではなくて、すでに活動しているインフォーマルな実践の共同体を見つけ出して、これを支援することなのです。(p36)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
仕事というのは個人のフォーマルな関係の総和ではなくて、「インフォーマルな実践の共同体」が担っているということができます。そしてこの共同体は語りの共同体であり、学ぶための場にもなっています。さらにこの共同体で、徒弟制がくりひろげられ、寺子屋も開かれます。もっと重要なのは、こうした共同体こそが革新を可能にしている場でもある、という点です。画期的な技術の革新や、大胆な将来プランは、インフォーマルな実践の共同体が可能にしてきたという研究も報告されてます。(p36)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
語りが大切だということは、もう一つ大事なことにつながっていきます。仕事をするのは個人でなくて、むしろ仲間との共同なのだという点です。語りを進めるにはどうしても仲間が必要です。そしてうまくいっている仕事は、仲間で活気をもって行われています。ところが建て前として、仕事は個人がやるもので、孤立した個人の仕事の総和として、全体の仕事が考えられます。そのことは、仕事の評価が個人を単位にして行われていることにも現れています。
もっとも孤立してなされていると思われる研究活動でさえも、仲間との日常的な語りが不可欠です。それも多くはインフォーマルな語り合いとして。仲間と共同して研究をする文化があるところに、おもしろい研究者が育っているようにみえます。(p28)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
フォーマルな関係だけで組織が存在しているのでも、また仕事がなされているのでもないことを、私たちはよく知っています。組織図には表れないインフォーマルな関係が、仕事を進めるうえでの貴重な手がかりになったり、また励ましになったりしてきました。そして仕事がより複雑になってきているいま、むしろインフォーマルこそ中心で、フォーマルな組織がばらばらになってしまわないための境界条件を与えているだけ、という時代になってきているように思われます。(p35)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
仕事は決められた仕方で進めるもので、偶然性とはいうのは仕事にとっては本来のものでない、と私達は考えがちですが、実際には偶然性が私たちの仕事を支えているといってもよいでしょう。明日もまた頑張ろうという気になるのは、たまたま出会った友人や昔の仲間から得た、励ましのためであることも多い。仕事は必然の手順にしたがわなくてはならないでしょうが、その必然はより大きな偶然が支えているというのが、ありのままの仕事の場のようです。(p34)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
いま広い範囲で「学ぶ共同体」が生まれてきています。これまでの考えの枠組みでは未来が描くなってきて、学ぼうという意欲が人びとの間に広がっているのです。グローバルな学習社会になってきている、とも言われます。この共同体の特徴は、現在の学校という制度とはちょうど逆に、学びたい人たちが集まって共同体を作り、教えてくれる人を探すところにあります。(p32)
免疫ネットワークの時代―複雑系で読む現代 (NHKブックス)
経済は成長することが当たり前だと考えられてきました。でも考えてみると、ひたすら成長する生きものは、ガン細胞でもないかぎり存在しません。いま私たちが営んでいる経済の仕組みは、長い歴史からみたら過度的なもので、成長でなくて成熟あるいは定常の経済にたどりつくのが課題なのでしょう。このことは誰の目にも明らかになりつつあります。(p.43)
最後の家族 (幻冬舎文庫)
「だいじょうぶなの?お仕事」思わず聞いてしまった。何とかなる。秀吉は昭子の顔を見ずに、そう言った。会社が相当危ないんだろうな、と思った。テレビや新聞などでは、構造改革とか不良債権の抜本的処理とかが話題に上らない日はない。一週間ほど前に、構造改革って何なのかしら、と聞いた。弱いやつは死ねってことだ、と秀吉は答えた。(p126)
--出典: 最後の家族 (幻冬舎文庫)
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最後の家族 (幻冬舎文庫)
親が苦しんだり焦っているのをお子さんは敏感に察知して、自己嫌悪に陥り、さらに自分を追いつめます。竹村から最初に言われたことだ。親が安定的で活き活きしているとお子さんはうれしいものなんです。(p124)
--出典: 最後の家族 (幻冬舎文庫)
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最後の家族 (幻冬舎文庫)
引きこもりは赤ん坊に似ていると昭子は思うようになった。赤ん坊に説教したり、怒鳴ったり、命令を聞かないからと怒ったり、頼みを聞かなかったからと懲罰を加える人は異常だ。母親は、実際に育てていく過程で赤ん坊とのコミュニケーションを学んでいく。育児の本は参考になるが、実際には赤ん坊と接してみて初めてわかることのほうが多い。(p115)
--出典: 最後の家族 (幻冬舎文庫)
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最後の家族 (幻冬舎文庫)
引きこもりに関わっている人で、いやな感じの人物に昭子は会ったことがない。威張る人や自分を飾る人がいない。ハセガワ・チームカウンセリングの女性も穏やかで、信頼できそうな人だった。引きこもりと向き合っている人たちは、説教とか命令とか叱責とか激励とか懲罰とか、そういったものにはまったく意味がないと、みんな骨身に染みてわかっているのだ。それも本で読んだり誰かに教えてもらって、ではなくて、実際に引きこもりの本人と対する間にからだに染みついていく。(p114)
--出典: 最後の家族 (幻冬舎文庫)
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性差を越えて―働く女と男のための栄養剤
明治の戸籍制度は、はっきりと家に立脚点をおいた。一八九八年に明治民法が成立すると、家に同居する人間は、同姓を名乗るように強制された。
今日でも、子供が誕生すると、戸籍係に届け、その家の一員として登録する。結婚すれば、結婚した旨を、戸籍係に届け、同姓を名乗る。同棲していても、子供が生まれると、子供を無戸籍にするのは忍びないと、同籍にする。女が台頭した今日でも、皮肉なことに、女が戸籍に執着する。夫婦が別姓を名乗るのは、いまだにすこぶるつきの少数例である。もちろん、男の姓を名乗る例が、九五パーセントを超えている。
日本人も西洋人も、個人としてしか、生まれようがない。しかし、日本人は、生まれるとすぐ、家を単位とした戸籍に組み込まれる。そして、一生を終えて、土にかえるときは、○○家の墓で永眠する。ここには、個人としての存在感は、希薄である。
戸籍は、きわめて日本的な制度である。韓国と台湾には、太平洋戦争の時に、日本が強制してつくらせたので、残っている。しかし、それ以外の国には、家を単位とする戸籍制度はない。多くの国が個人登録制である。
工業社会どころか、情報社会になっても、いまだに、日本人は農耕社会の残滓の中にいる。そして、○○家の墓や戸籍が証明するように、いまだに個人は自立していない。(p208)
性差を越えて―働く女と男のための栄養剤
 共感が、人間関係を支えている社会では、弱者の体験を共有できないがゆえに、弱者は孤立せざるをえなのだ。弱者には、哀れみと同情が、注がれるだけである。明日は自分が弱者になるかもしれない、という認識が共有されることはない。だから、弱者は、黙って社会から消えていくのだ。
 雇用機会均等法は、国内の運動としては生まれなかった。海外からの圧力によって、産業界がしぶしぶ承諾したので、均等法は成立した。日本の現状はまだまだ、きわめて強固な男社会である。しかし、日本でも、女が台頭しているのは、紛れもない事実である。それは、日本でも、価値が移動していることを意味している。
 日本のほんとうの弱者たち、それはおそらく子供であろう。子供は支配を完全に受けていないので、自意識が完成していない。社会の価値観を体得する時期に、体得すべき価値観は無秩序である。女達は、もはや男社会に、何の意味も見いだしていない。男たちも、自分たちの社会に自信はない。今の子供たちには、見習うべき人生の手本がない。
 今では、価値は不動だったから、それを人間の本質であるとして、教育ができた。しかし、価値を失った今の社会は、どんな人間を育てたらいいのか、暗中模索である。人間の本質を、見失ってしまったのである。そこでとにかく、現在の社会に適合する人間をつくる以外に道はない。それが二〇年後、三〇年後に役にたつかどうか、わからないのにもかかわらず、現在の価値に照準を合わせざるをえない。(p217-218)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
曖昧なゴールはプロジェクトに対するメンバーの情熱とエネルギーに調和していなくてはなりません。創造的なプロジェクトに弾みをつけるのが、この情熱とエネルギーですから、曖昧なゴールには、やむにやまれぬ感情的な要素がぜひとも必要です。(p8)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
ケンブリッジ大学の研究者アラン・ブラックウェルのグループは「学際的チームによる破壊的イノベーション」と題する論文で、曖昧なゴールを改革の成功に欠かせない要素だとしています。曖昧なゴールは「旅の間、チームの目を好機からそらすことなく、仕事の全体的な方向づけをする」ものだというのです。あるリーダーは自分のアプローチを「遠回しのマネジメント」と表現しています。また、この研究チームは「集中によって得られる成果と偶然によるせいかのバランスを取ること」と「チーム全体のゴールと各メンバーのゴールの調整を図ること」が重要だとも指摘しています。(p8)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
知識労働ではゴールは曖昧でなければなりません。
〈略〉
ビジネスプロセスが原因と結果の確実でゆるぎない連鎖を作り出すのに対し、ゲームストーミングは別のもの、すなわち連鎖ではなく、探求、実験、試行錯誤のための枠組みを作り出します。ゴールまでの道のりははっきりせず、しかもゴールさえ変わってしまうかもしれないのです。〈p6〉
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
知識労働(ナレッジワーク)では創造性を求めて仕事を管理しなければなりません。予測可能なことよりも画期的なアイディアが欲しいのです。画期的なアイディアは元来予測不可能なものです。創造性を求める仕事においては、ゴールは過去を少しずつ改善することではなく、何か新しいものを生み出すことです。
「新しい」とは「今まで見たことがない」という意味です。したがって、チームが真の創造を求めるなら、ゴールを前もって正確に定めることは不可能です。(p6)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
ビジネスは他の多くの人間の営み同様、(複数の)ゴールを中心に構築されます。ゴールは私たちがAからBへ、つまり今いるところから行きたいところへ移動する方法です。ゴールがあると現在の状態A(初期状態)と将来の目標である状態B(ゴール)との間にある種の緊張関係が生まれます。AとBの間にはゴールへ到達するために踏破しなくてはならない道があり、これを「チャレンジスペース」と呼ぶことにします。(p5)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
製造業では、いつも変わらない結果、反復可能で予測可能な結果を目指して作業を管理することが望まれます。製造業におけるゴールは具体的で量の計測が可能であることが強く望まれます。できる限り明確で、曖昧さのないゴールが求められます。できるだけ具体的であることが求められ、またできるだけ正確に測定できることが求められます。このような明確なゴールがある場合、「ビジネスプロセス」を踏むというのが、チャレンジスペースに取り組む最良の方法となります。ビジネスプロセス、つまりある一連のステップに正確に従っていけば、原因と結果の連鎖が生まれ、常に同じ結果につながることになります。(p5)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
ゲーム思考は、自社にとっての成功のシナリオを皆が意識し、相互に助け合いながら、シナリオの実現を目指す働き方です。〈中略〉重要なことは、どうしたらゴールできるのか? という究極の目的を全員が意識し、知恵を出し合い、助け合うことです。リーダーはイノベーションの障害を取り除き、精神的な支援を惜しみません。成功シナリオの実行度合いを確認し、うまくいった点、いかなかった点を全員で話し合い、成果だけでなく他人を助けたかどうかを含め、良い行動をした人を称賛します。その結果、どういう行動を各人がとればよいのかということについて組織全体が学習することになります。(p.xv)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
一方、ゲーム思考の生産性の原則は、「新たな変化や挑戦に対する相互支援スピード」になります。私は、これを「私は100%がんばっています」という従来の生産性と対比して、組織全体で革新が起きるスピードという意味を込めて「革新生産性」と呼んでいます。一人ひとりの社員がパンパンに仕事をしている組織では、誰も変化に対応することができません。トップが新しいプロジェクトを立ち上げようとしても、「そのうちにやっておきます」、みたいになってしまうのです。革新生産性の高い組織は、ルーチンワークの比率を常に下げる努力をしていて、変化に積極的に立ち向かいます。プロセス思考にとって「変化は脅威」ですが、ゲーム思考にとって「変化はチャンス」です。(p.xiv)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
経営の発想をプロセス思考からゲーム思考に変えると、経営管理のPDCA(計画・実行・評価・改善)サイクルは大きく変わります。その根本的な発想の違いは、「生産性(プロダクティビティ)の定義」に表れてくるでしょう。
プロセス思考の生産性の原則は、「計画どおりの仕事を遂行するスピード」です。何があろうと計画どおりに仕事を実行することが、もっとも重視されます。管理者は実行状況を常にチェックし、適宜介入し、予定どおりに目標が遂行できるように努めます。あらかじめ設定した目標値の達成状況を評価し、達成していない指標については、すぐに改善案を検討します。当然、計画を達成した人に報奨を与えます。他人の仕事に首を突っ込んで、自分の仕事が滞った人は、ご存じのように、たとえそちらのほうが大事なことであっても、計画どおりに行かなかったことを反省させられることになります。結果として、誰も他人や他部署のことはおかまいなしのタコツボ文化が強化されます。(p.xiv)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
創造的な組織のリーダーは、プロセスの管理を自分の仕事とは考えません。もしゴールがわかっている仕事であれば、そのプロセスは明確で、そのとおりに仕事をしているかどうかを管理することに意味があるかもしれません。ですが私たちのまわりに、そんなわかりきった単純きわまりない仕事があるでしょうか?(p.xiii)
ゲームストーミング ―会議、チーム、プロジェクトを成功へと導く87のゲーム
プロセスを明確に定義し管理をすれぱするほど、個人の「やらされ感」は高まります。過度の標準化を行ってしまうと、仕事の本質を考えていこうというモチベーションを人から奪い去ってしまいます。いくら標準化を進めたとしても、毎日の仕事は例外処理に溢れています。例外をできるだけ少なくして仕事のスピードを上げる努力をする企業は多いと思いますが、生産性を真に高めるためには「例外こそ知識の宝庫」という考え方を持つ必要があります。何かあっても結果として遅れが出ないことを重視する職場では、例外や失敗を「なかったことにする」風土ができあがります。当然の帰結として、学習しない組織へと一直線に向かうことになります。厳密すぎる分業と管理は、創造性を発揮する余地を失わせてしまうのです。一見効率的なように見える分業と管理は、一人ひとりの持つ豊かな感性・直感力・創造性という資源をまったく活用しないため、新たな問題に対処する力が弱く、成長のスピードも遅くなります。(p.xiii)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
大体の思考法は、何か問題があったら潜らずに、「じゃあ、どうしよう、こうしよう、こうしょう、こうしよう」と、上へ上へと積みあげていってしまうんです。
よくあるロジカル・シンキングとか問題解決法もみんなそうです。
何があれば、問題は解決するだろう。キャリアがあればいいんだ。どうやったらキャリアを伸ばせるだろうか。資格をとればいいんだ……と、「上へ上へ」の積み上げです。
〈中略〉
怪しげな奴に限って、すぐ効能を言い出す。
「すぐに痩せたいでしょう? それには秘密があります。どうすれば痩せるのか教えましょう」というふうに、痩せる方法ばっかり言うんです。
こういうのはダメ。役に立たない。
〈中略〉
どうすればいいのかなんて考えるのは、最後の最後。
というより底まで潜って「手がついた」ら、自然に解決法が浮かんできます。そういうふうに、自然に浮かんでくる解決法以外はすべて考えるに足りません。(p141-143)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
「強い意志があれば、自分の中で意思統一ができるはず」というのは幻想なんですよ。
もっと現実的に、リアルに自分を観測してみる。
ぼくらの心のモデルとして、自分の中に複数の自分がいる。で、その一人がたとえばしょっちゅう食べたがるとか、「決心」社長の監視を盗んで食べたがる。
「決心」社長の監視がゆるい時、つまり理性がフッとゆるんだ時に、こっそりとポテチの袋開けてパリパリパリパリ食べる。社長に見つかった瞬間に、「いえいえ」とか言って、あっという間に隠れるんですよ。
どうですか?みなさんが「自分の決心をつい破っちゃう時」って、こんな感じじゃないでしょうか?
同じように、何かルール違反をついついしちゃう人というのは、多分、そのルール違反を自分でやっている意識があまりないんですね。心の中に、「いや、それぐらいいいんじゃないか」という自分がいる。よく海外アニメに出てくる「頭の両側で天使と悪魔がささやく」、あれと同じです。
学級委員会と言ってもいいんですけれども、自分というのは所詮、統一がとれていない中小企業の社長にすぎない。
だから、自分が決心したからといって思い通りに何かできないのは当たり前。(p131-132)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
他人はともかく、自分ぐらいは思う通りに動かしたい。
「なんで自分は痩せたいと思っているのに食べてしまうんだろう」もそうですし、
「なんで自分は勉強しなきゃいけないと思っているのに遊んじゃうんだろう」、これも同じです。
でも、自分が自分の思い通りに動かないのは当たり前、と考えたほうが、おそらく解決法には近い。
これを理解するための思考ツールが“株式会社・自分”です。
自分を一つの統一された自我だと考えない。
思い通りに働いてくれない部下がいっぱいいる小さな会社というふうに考えるんです。(p130)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
彼女が聞きたいのは、おそらくこれじゃない。いや、「これじゃないだろう」と、僕は“疑い”ました。
「疑って分析する」、その上で、その文章中にその“証拠”を見つける。
こう考えないと、相談者に対してフェアじゃないんですよ。
相談してくる人の多くは、日記もブログも普段ろくに書かない人です。ひょっとしたら、相談する相手もいない人かもしれない。もしくは誰に相談してもうまくいかないから、新聞に投稿してくる。
投稿はメールの場合もありますし、ハガキもあります。文章を日常的に書き慣れない人が、慣れない中で本当に一生懸命に書いて送ってきます。(p121)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
生きるということはひどく無様にあがくことで、素晴らしいことでも何でもない。(p121)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
「生きる」とは欲望と不安を受け入れること。無駄と混乱は当たり前なんです。(p112)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
幸せとは「不幸の回避」ではなく、「乗り越えるのが楽しい不幸」だと思います。(p106)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
本書は「人生相談本」ではありません。
「問題に対する考え方」を教える本です。
論理的思考力や、それを超える発想法を、できるかぎりわかりやすく、読者みんなが身につけて実践できるように構成しました。(p7)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
「人間誰しもが持っているような普遍的な問題」にまでいきついて、さらって帰ってこないと、考えたことにはならない。(p99)
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
なんか、もっと「届く」ような答えをだしたい!
読んでいる人の世界が変わるような、少なくとも「変わって見えてしまう」ような答えを出したい。(p81)
社会を変えるには (講談社現代新書)
 現象学を社会学にとりいれたのが、現象学的社会学です。これがのちに、エスノメソドロジーという学派にもつながり、「構築主義」という考え方になります。
 これらで重視されるのは、自分も世界も相手も、作り作られてくるものだから、それがどんなふうに構築されているのかを考えるということです。この作り作られてくる関係のことを、リフレクシビティreflexivityと言い、「反映性」とか「再帰性」とか訳されます。
 構築主義的な研究テーマは、たとえば現在の「女」や「男」の概念や役割などは、どのように作られてきたのか、などです。「男並みに働く」か「女らしく主婦になる」かのどちらかを選べという発想は、「女の役割」がもとからある、遺伝子で決まっている、という発想にもとづいています。
 そうではなくて、工業化をはじめとした歴史的変化や、社会関係のなかで、どうやって「女」が作られてきたか、それと同時に「男」もどう作られてきたか、を考えるわけです。「日本人」と「朝鮮人」がどう作られてきたのか、とか、国益や社会問題はどう作られてきたのか、といった研究などもあります。
 たとえは、尖閣諸島問題は、いつから問題だったのでしょうか。領海や排他的経済水域が陸地から十二海里とか二〇〇海里で決められるという取り決めができる前は重要度は低く、もっと昔はどうでもよい岩の塊でした。一九七八年の日中平和友好条約の際も、ほかに重要な項目があったので、棚上げされました。(p356)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
 ここではあらかじめ「私」や「あなた」がある、それが相互作用する、という考え方を個体論とよびましょう。それにたいし、関係のなかで構成されてく、相手も自分も作り作られてくる、という考え方を関係論とよびましょう。
 人間は、なかなか個体論的な発想から抜け出せません。やっぱりあなたが悪い、私が正しいと思い、あれこれの観測を数えあげてしまう。そのところで、「ちょっと待て、いったん頭を空にしてみよう」という知恵が必要です。それを「エポケー」といい、日本語では「判断停止」などと訳します。
 このような考えをフッサールは、第一次大戦前から唱えていましたが、戦後に広く受け入れられていきました。戦争の体験、科学の変化、ドイツ社会の動揺などが重なって「絶対ということはありえない」という感覚が背景になっていたと思われます。(p352)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
 それでは、こう考えたらどうでしょうか。最初から「私」や「あなた」があるのではなくて、まず関係がある。仲良くしているときは、「すばらしいあなた」と「すばらしい私」が、この世に現象します。仲が悪くなると、「悪逆非道なあなた」と「被害者の私」が、「私」から見たこの世に現象する。これを、「ほんとうは悪逆非道なあなたのことを、私は誤認していた」と考えるのではなく、そのときそのときの関係の両端に、「私」と「あなた」が現象しているのだ、と考える。
 つまり、関係のなかで「私」も「あなた」も事後的に後世されてくる、と考えるわけです。関係の中で作られてくるわけですから、どちらが正しいということは言えません。向こうが怒ればこちらも腹が立ちます。向こうが笑えばこちらも警戒心を解きます。関係は変化しますから、「私」も「あなた」も変化します。おたがいが、作り作られているのです。(p351)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
フッサールとその後継者が提唱した考え方は、主体と客体、「私」と「あなた」はあらかじめ存在するのではなく、「志向性」のなかで事後的に後世されるのだ、ということでした。この考え方を、私なりに説明します。
 けんかをすると、「あなたがそんのな人だとは思わなかった」ということがしばしばおきます。近代科学の考え方では、私は「あなた」を誤って認識していた、今回新しい観測データが入ったので正確な認識に改めた、ということになります。
 ところが、そういう考え方をすると、けんはもっとひどくなります。「私だってそんな人間だとは思わなかった」とか「あなたの認識は間違っている」と、相手は言い返します。それに対し、「あなたの認識のほうこそ間違っている」と応じて、おたがいに罵りあいようになります。
 近代的な考え方では、どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているとしても、どこかに正しい「真実」があって、それを人間は把握できるとされます。離婚訴訟などは、どちらの認識が正しいのかを立証しようとします。
 かといって、記憶は変形しやすいし、それぞれが言っていることは、誤認やうそがあるかもしれません。そこで、殴られたときに医者にかかった診断書や、録音していおいた罵りあいなどの、証拠を提出して「真実」に迫ろうとします。くりかえしになりますが、これは「私」と「あなた」を正確に観測すれば、その相互作用としての世界を把握することができる、という考え方を前提にしています。(p348)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
 子どもに学歴をつけさせるためには、収入が必要になります。そうでなくても男性の雇用と賃金が不安定化しているので、専業主婦ではやっていけなくなり、女性の労働力率が上昇します。男性の賃金が下がって働く女性が増えると、いろいろな意味で余裕がなくなる家庭も増え、それだけが原因ではありませんが、家庭が不安定化するとも言われています。
 失業と非正規は全体に増えますが、年長者の正規雇用の維持が優先されることなどのため、とくに若者でそれらが増加します。なかなか安定した収入が得られないので、親元同居が長期化して、晩婚化と少子化が進みます。
 これらは、先進諸国でほぼ共通しておきた現象です。ただし多少のバリエーションもあります。
 社会保障が整っている国、たとえば北欧諸国では、収入が少なくとも親元を出ても大丈夫なので、親元同居が長期化しない傾向があります。それにたいして、社会保障が整っていないか、あってもそれが家族単位でできている国、たとえば正規雇用の親のもとを離れたら非正規の若者は健康保険に入れないといった制度の国では、親元から出て行きません。日本や南欧諸国などでは親元同居の長期化がみられます。(p21)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
長期安定雇用の人が減るので、福祉のための税収や積立金などが減少します。労組と労働政党も弱くなるので、福祉の切り下げがおこり、格差がますます激しくなります。正規雇用が減り、就職争いが激しくなります。低い学歴では「マックジョブ」に就くしかありませんから、大学進学率が上がります。
ただし、かつてのように、みんなが受験競争をするというかたちにはなりません。家庭が豊かで成績のいい層は競争が激しくなりますが、それ以外は中堅以下の学校にに行っても将来が知れているので、意欲が下がって勉強をしなくなる層が増えます。こうして、親の格差が子どもの世代でも再生産されることになります。(p20)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
日本でもいまでは、育児支援や休職制度を活用して仕事をやめなかった女性の方が、専業主婦になった女性より、生涯に産む子どもの数はむしろ多いとされています。育児支援などがない状態で、女性が従来の性役割を守り、出産して、育児や家事も全部やりながら仕事もすると、疲労で疲れるか、うつ病になるか、児童虐待か離婚か……などに行き着きがちです。(p394)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
保守主義の逆機能の一つは、少子化です。ポスト工業社会においては、日本、スペイン、イタリアなど、伝統的な性役割にもとづいた価値観や制度の国のほうが、少子化が激化する傾向があります。
なぜかといえば、男性の平均賃金が下がり、女性が働きにでざるをえないのに、保守主義が障害になって対応ができないからです。男性は家事をしない、休職制度も保育園も整備されていない、というのでは、女性は子どもを産まないか、あるいは結婚しません。出産して主婦になったとしても、働きにでられないと収入が少ないので、何人も産みません。保守的な価値観が、逆効果になっているのです。(p394)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
一九六〇年代から八〇年代の日本では、安定雇用が広がったので、それ以前の時代より、生活様式やライフサイクルが均質化しました。男なら一八歳か二二歳まで学校に行き、新卒で就職して、着実に給料があがり、六〇歳で引退する。女なら二四歳までに結婚して、三〇歳までに二人の子どもを産み、三五歳で子育てを終えて、パートに出たあと、老いた親を介護する。農民や自営業者もいるけれど、それはそれで、「伝統的」な行動様式を保っている層です。
 こういう社会は、きわめて政治や政策をやりやすい。「労働者」や「地域」の代表が議員になり、「雇用者」「農民」「主婦」「高齢者」といった分類に対応した政策をとればいいからです。
たとえば日本の年金制度は、結果的には、こういうコンセプトて組み立てられたと言われます。雇用者は給与天引きで会社と折半して厚生年金を積み立てる。自営業者や農民は国民年金に入って、自分で納入する。もらえる年金は、雇用者が定年まで勤めると月額二〇万円くらいのことが多いのに、国民年金は満額でも六万円程度にしかならない。しかし農民や自営業者は六〇歳以後も働けるし、自宅があって、息子が跡を継いで嫁が面倒をみてくれるから、月額六万円でも問題ない。
 問題は、上のような類型にあてはまらない人が、たくさん出てきたことです。たとえば持ち家がないのに、厚生年金に所属できなかった、高齢の元非正規労働者や元零細企業労働者。廃業して跡継ぎがいない、高齢の元自営業者などです。近年では、それが増大し、今後ますます増える傾向が固定してきました。こういう問題の多い制度をそのままにして、財源がないから税金だけ上げる、というのでは格差の是正になりませんし、賛成もできません。
 経済政策も同様です。以前だったら、公共事業で道路や港湾を整え、業界団体の人に話をつければ、企業が誘致できて経済が成長し、公共事業で支出したぶんはとりもどせることになっていました。要するに「こうすればこうなるだろう」という予測が立ちやすかった。それが成りたたなくなってきたのです。(p375-376)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
現代の誰しもが共有している問題意識があります。それは、「誰もが『自由」になってきた」「誰も自分の言うことを聞いてくれなくなってきた」「自分はないがしろにされている」という感覚です。これは首相であろうと、高級官僚であろうと、非正規雇用労働者であろうと、おそらく共有されています。それを変えれば、誰にとっても「社会を変える」ことになる(p434)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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社会を変えるには (講談社現代新書)
社会を変えたい、と思う人は多いでしょう。しかし、実際には変えられるとは思えない。そもそもどうしたら「社会を変える」ことになるのかわからない。選挙で投票しても、自分が政治家に当選しても、それで変えられるのだろうか。そう感じている人は多いのではないでしょうか。〈略〉しかし一方で、デモがおきているのをみると、もしかしたら代わるのかもしれないと思う。〈略〉いま日本でおきていることがどういうことなのか。社会を変えるというのはどういうことなのか。歴史的、社会構造的、あるいは思想的に考えてみようというのが、本書の全体の趣旨です。(p3-5 はじめにより)
--出典: 社会を変えるには (講談社現代新書)
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BRUTUS (ブルータス) 2012年 9/15号 [雑誌]
友達、つまり人と人とが友情によって結びついている状態というのは、制度化されていない人間関係です。会社や家族みたいな形では社会的制度や法律で担保されている関係ではないので、常に曖昧模糊としている。これがもし恋愛であれば、誰かを相手として一番であると決めたり、「付き合いましょう」とお互いに確認したりしますが、友達は人数も決まっていなければ、普通お互いに友達であることを確認もしない。本当の友達であるかどうかなんてことは誰も保証してくれない。(p22 古市憲寿)
--出典: BRUTUS (ブルータス) 2012年 9/15号 [雑誌]
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BRUTUS (ブルータス) 2012年 9/15号 [雑誌]
「ともだち」ってなんだろう。
ふと思い浮かんだのは、「この人は、自分がいないと困るだろう」と感じる存在で、同時に僕自身がまた相手に「支えてもらっている」という感覚がある人。お互いがインディペンデントに立っているけれど、そうしたインターディペンデンスの関係。ともだちは「相互依存」の関係なんです。(p.78 内田樹)
--出典: BRUTUS (ブルータス) 2012年 9/15号 [雑誌]
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核家族から単家族へ (丸善ライブラリー)
今日の賃金労働が辛いことからは想像しにくいが、仕事は本来楽しいことであった。それと同様に、子育ては苦しく辛いことではなく、ほんらい楽しいことである。(p215)
親子という病 (講談社現代新書)
多くの人たちが「家族のため」にではなくて「自分が納得するため」に仕事を探すようになると、労働市場に偏りができて、経営者たちは困ってしまう。資本主義社会では、不満を言わずに単純労働に従事するような労働力も必要だからだ。(p149)
--出典: 親子という病 (講談社現代新書)
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親子という病 (講談社現代新書)
家族として生きない人が増えるということは、「何のために私は働くの?」と労働の意味や意義を求める人が増えるということでもある。しかし、その疑問にしっかり答えられるほどの充実感や満足感を与えてくれる労働は、世の中にそう多くはない。(p150)
--出典: 親子という病 (講談社現代新書)
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親子という病 (講談社現代新書)
「家族の絆を大切に」といかにも精神論ほ唱えるように繰り返す政治家たちは、本当は「親や病気の家族の面倒くらい、社会保障費を使わずに自分たちで見なさい」と言いたいのではないだろうか。(p149)
--出典: 親子という病 (講談社現代新書)
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21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
死亡率の低下が家族生活に及ぼした影響は、いくら強調してもしすぎることはありません。大人になってからも人はいつ死ぬか分からないという状態から、死はもっぱら高齢者に訪れるものという今日のような状態への転換は、結婚生活や家族生活に長期的な安定を与えました。人類史上初めて結婚は、そして家族は、一生その中で暮らしていけると信頼するにたる制度となったのです。それにともなって人生の予測可能性が(predictability)がかなりの程度高まり、また誰の人生もたがいに似かよってくるという画一化(standardization)も進みました。誰もが似たようなライフコースを歩み、似たような家族を作った時代。〈略〉これこそが近代家族の時代でありました。
さらに、二〇世紀、特に第二次世界大戦後の先進国、いわゆる「豊かな社会(affluent society)」で可能になった社会の全階層での完全雇用の実現や高い消費水準の達成といった経済的条件も、画一性をいっそう強める方向に作用しました。そしてもちろん、〈略〉家族や子どもへの愛に至上の価値をおくイデオロギーも。近代は、というより二〇世紀は、まざに「家族の時代」でありました。(p240)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
公的な世界も私的な世界も、その分かたれかたも、それ全部含めて「社会」なのです。家族なんて、ましてや女と男の関係なんて、政治や経済とは関係がないと思われるかもしれませんが、実は恐ろしいくらい連動しているのです。(p100)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
家事というのは要するに、支払われない労働以外のなにものでもありません。別の言い方をすると、「市場化されない労働」とも言えます。〈略〉家事というと、ここが大事なところなんですけれども、とても古い種類の労働だと思いませんか。人間は誕生して以来、ずうっと暮らしてきたんだから、身の回りのことをする家事も、ずうっとあったはずだ。だから会社でしているような種類の仕事に比べて、家事という仕事は歴史的にも古いだろうと。ところが、それは間違いです。〈略〉近代社会になって市場化がかなり進んで、「売れる仕事」と「売れない仕事」とがはっきり分けられるようにならなければ、「これが家事だ」と指し示すことはできない。(p38)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
経済産業省は女性を企業の労働力にしたい、厚生労働省は家庭介護の担い手として女性をあてにする。一人の生身の女がいったいどうしたらそんなにたくさんの役割を果たせるものか、自分でやってみたら,と言いたくなります。〈略〉今のままだと女性たちは知らない間に制度改革の狭間に落っことされて、主婦になることも、主婦でない生き方も選ぶこともままならない、袋小路に追い込まれてしまいます。
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
近代の母親は二つのものの代理機関でもあります。一つは医者です。近代になって衛生という考えかたが生まれ、人々は日常生活の細部にまで、神経質なほど気を配るようになりました。母親というものは、子どものみならず、夫や家族の全員に対して、手を洗いなさいとか、何を食べちゃいけないとか、いちいちうるさく口を出しますね。これは、十八世紀〜二十世紀に母親に要請された「病気予防者」としての役割です。
それから母親は、周知のように、学校の教師の代理機関でもあります。「衛生」と「教育」といえば、近代社会がその内側まで踏み込んで人間を管理する、中心的な制度です。(p69)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
人はなぜ子どもを産むのか。これから時代には、この問いが大きな謎とならざるをえません。経済的に役に立つから産む(生産財としての子ども)のでも、みんなが産むから産む(近代家族の規範)のでなくなれば、人は自由になるかわり、子どもを産む理由を自分で見つけ出さなくてはならなくなります。楽しいから産む(耐久消費財としての子ども)、もう少しもっともらしい言いかたをすれば、子育て自体がかけがえのない人間的な体験をもたらしてくれるから産む、結局のところそれしかないでしょう。(p196)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
現代、子どもを生み育てなければならないと、その必要性を真に実感しているのは、家族でも、ましてや個人でもありません。将来の労働力を確保しなくては、と考えるのは国家だけです。本当は国境を越えた労働力の移動を自由にすれば、そんな心配はなくなるのですが、そうすると「国家」の存在基盤もあやしくなりますから、近年の出生率低下をめぐる政府、マスコミあげての大騒動は、そんなあたりを背景にしています。(p196)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
ヨーロッパ人と話をしていると、四十代以下の人であれば、相当しっかりした地位にある人でも、パートナーを「妻」や「夫」ではなく「ガールフレンド」「ボーイフレンド」として紹介してくれることが多いのですが、スキャンダルでも聞いたように驚いてはいけません。現在ではあたりまえの習慣なのですから。(p233)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
「個人の時代」が来る、などというと、なんだまたか、と思う人がいるかもしれません。個人を尊重する民主的な家族の時代が来る、というのは、戦後、家制度が終わったといわれた時期も、さんざん繰り返されたスローガンでしたから。しかし、今回問題になっていることは、それとは一風違います。理念としての個人主義が望ましいからそれを実現しようなどというきれいごとではなくて、システムが否応なく個人を単位とする方向へ変わりつつあるというのです。(p242)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
「個人化する家族」という概念を最初にはっきり打ち出したのは家族社会学者の目黒依子です。〈略〉家族という観点から見ると、婚姻の公的意味づけの消失、一生を通じて、あるいは人生のかなりの期間、子どもや配偶者をもたないライフコースの一般化など、家庭に属するということが人々にとって必ずしも自明でも必然でもない社会の到来を指し示しています。若い世代がそうした生き方を志向するばかりでなく、つれあいに先立たれた高齢者のように、そうした暮らしを余儀なくされる局面ももちろんでてきます。「家族生活は人の一生の中であたり前の経験ではなく、ある時期に、ある特定の個人的なつながりをもつ人々とでつくるもの」となる、すなわち家族生活は一つのライフスタイル、人生のエピソードの一つとなると目黒はいいます。(p242)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
主婦が安心して主婦をやっていられるためには三つの条件が必要だとわたしはかねがね考えています。夫は死なない、夫は失業しない、離婚しない、の三条件です。人口転換で達成された第一条件はともかく、完全雇用が崩れつつあり、離婚率も上昇中の今日、第二、第三の条件は風前の灯火です。そんな状況で主婦になることを選択できるのは、よほど勇気のある人か、見通しの甘い人だというほかありません。(p249)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
これからの時代、主婦になる選択をする女性は、遠からずまた経済的等の理由で仕事につく可能性が大きいこと、仕事につかない場合は主婦特有の悩みにとりつかれる恐れが少なからずあることを知っておくべきです。そしてそういう状況に自分はどう対処するのかを、あらかじめ考えておく。子どもが小さいうちも、自分のアイデンティティの拠りどころとか生き甲斐を家庭生活以外に持ち続けておく、できれば社会ですぐにでも通用するように自分の能力や技術を磨き続けておく、そんな心がけがあれば、ずいぶん違うのではないでしょうか。(p168)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
第三世代(1950~75年の間に生まれた世代)もまた、第二世代(1925-50年の間に生まれた世代)のきょうだいネットワークの恩恵をこうむっているのを忘れてはいけないでしょう。子どもに期待できない第二世代は、もうすでに、お互いどうしで支えあいを始めています。夫に先立たれた姉妹たちで、さて久しぶりに水入らずで旅行にでも出掛けましょうか、といったことから始まって、病院に行くのにつきあう、とか、あるいは寝込んだときに食事を届けあげるとか……。戦後、都市に集団移住してきた彼女たちは、育児のときに活躍したネットワークを、今度は自分たち自身のために活性化しているのです。心強い「叔母さん」がいることで、第三世代はどんな助けられていることか。
本当に深刻な事態は、この第三世代が老い始めたときに始まります。きょうだいもいなければ、子どももあてにならない。いったいわたしたちはどうしたらいいのでしょうか。
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
毎日新聞社人口問題調査会の家族世論調査によると1981年と1990年を比べると、結婚時の親との同居割合全体はあまり変わらないものの、妻方の親との同居が10年で二倍近く増え(6.0%→10.6%)、その分夫方の親との同居が減っています(34.8%→28.2%)。〈略〉
現代の若夫婦は、両方の親の間の潜在的な綱引きの、たいへんな緊張関係の中にいます。しかし当の二人も、双方のご両親も、どうぞ肝に銘じてください。現代の若夫婦は、〈略〉どちらかの家に入りきってしまうことはできないのです。
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
子ども二人の場合、女の子しかいない確率は、四分の一です。「男・男」「男・女」「女・男」「女/女」の四とおりなので、「女・女」は四軒に一軒です。父系制の原則どおり家制度を続けていけば、代替わりごとに四軒に一軒の家は潰れるということになります。これはたいへんなことです。四組の老夫婦のうち一組は子どもの支えを失い、四つに一つの墓は無縁仏になるということなのですから。(p204)
21世紀家族へ―家族の戦後体制の見かた・超えかた (有斐閣選書)
一家の子ども数は二人になりました。それぞれの家は純粋な父系制、すなわち男の子が跡を取り、女の子は他家へ嫁に行くシステムをとることにします。次男(あるいは非跡取り)は家を出てもいいけれども、とにかく一人は男の子が残る。そして、女の子しかいない家は潰れるということにします。さて、そうすると、潰れる家は何軒に一軒の割合で生じるでしょうか。(p203)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
自らの利益に反するような情報でも公開する情報源(例えば自社製品に対する否定的なレビューも公開する企業)は、信頼できる存在だと見なされるのである。
批判的なコメントは、ブランドへの信頼感を高める。それは企業の素顔、本当の姿を見せてくれるからだ。そして人々は本物だと感じられるものに対して好感を抱く。〈略〉この20年間というもの、プッシュ型のマーケティングの洪水が人々を襲っており、「まずは疑ってかかる」というのが人々の基本姿勢になっている。彼らはうわべなどにごまかされない。完璧なブランドなど存在せず、あらゆるものに改善の余地があることを、消費者は知っているのである。(p236)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
企業に対する信頼が生まれる過程は、新しく出会った人々に対する信頼が生まれる過程に似ている。それはゆっくりと進み、数ヶ月や数年かかる場合がある。(p239)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
社会的な絆は、幸福感の中心的な要素であるという研究結果が発表されている。他人と深い関係を持つ人ほど、幸福を感じているというのだ。(p38)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
人々が近況をアップデートするのは、「つながっている感覚」を生み出すためだ。たとえその相手が地理的に離れた場所にいたとしても関係ない。(p37)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
社会心理学における長年の調査によると、人々が会話をする目的は、社会的な絆を形成してそれを深めることにある。私たちは会話を通じてお互いを理解することができるのだ。(p37)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
人々が何千年もの間、オフラインで行ってきた社会行動が、いまオンラインに移ってきていると言える。ソーシャルウェプの登場といっても、単にオンラインの世界がオフラインの世界に追いつこうとしているだけに過ぎない。(p26)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
現代のコミュニケーション技術を使えば、何百、何千といった人々とつながることができるにもかかわらず、私たちはごく少数の親しい友人たちと付き合うというスタイルを維持している。デジタルコミュニケーション技術によって、異なるグループが垣根を超えてつながることができるようになったのに、彼らはお互いに独立を保っているのだ。携帯電話のアドレス帳に何百という連絡先が登録されていたとしても、その中のたった4人を相手にした通話が、通話全体の80パーセントを占めているのである。(p25)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
企業がソーシャルウェブを理解しようとすると、技術や技術の変化に目を奪われてしまうことが多い。しかし本当に必要なのは、人間の行動に注目することだ。そして人間の行動が変化するスピードは非常に緩やかである。その多くは長い時間をかけて進化してきたものであり、人が一生の間に感じられるほどのスピードで変化することはほとんどない。(p24)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
私たちは周囲にいる無数の人々から影響を受けているが、特に影響を受けやすいのが、「自分に似ている」と感じられる人々だ。この傾向は特に、相手と自分とを同列に並べて考える際に強くなる。例えば同じ年代や同じ人種の人々、同じ出身地や同じスキルを持つような人々だ。(p148)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
人々がどんな自動車を買うかは社会的な属性とは関係がなく、周囲にいる人々がどんな自動車を運転しているのかによって決まる。〈略〉また自慢したくなるような自動車に乗りたくても、周囲の人々が自動車に関心を持っていないのであれば、その標準に合わせるようになる。(p147)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
どう行動すればいいのか、あるいはどう考えればいいのか自信が持てないとき、人は周囲にいる人々を観察する。これは「ソーシャルプルーフ(社会的証明)」と呼ばれる脳の働きだ。他人の行動を観察しているとき、私たちの脳は彼らがどう考えているのかをシミュレーションしていることが研究によって分かっている。(p146)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
何らかの判断を下す場合、無意識脳は目の前にある選択肢を評価して、導かれた結論に応じて肯定的あるいは否定的な感情を生み出し、それを意識脳に伝える。その結果に応じて肯定的あるいは否定的な感情を生み出し、それを意識脳に伝える。その結果、人は選択肢のひとつに好意を抱くようになる。そのときには、無意識脳が詳細な分析を終えていて、私たちに何をすべきかを伝えているのである。(p181)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
誰かから何か頼まれると、さらに依頼主が自分の尊敬する人物だったり、自分のことを考えていてくれると信じている人物だったりすると、損得勘定を一切抜きにして、その依頼に応えたいという欲求が心に湧いてくる。(p194)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
実は無意識脳には意識脳の20万倍にも達する処理能力がある。〈略〉無意識脳は過去の経験や、失敗から学ぼうとし、膨大な過去の記憶に基づいて結論を下す。そして意識脳は、無意識脳が下した結論というインプットを得たうえで、直近の短期記憶に基づいて働くのである。(p179)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
実は人の行動の大部分は自分ではアクセスすることができない無意識脳によって促されているのである。私たちはなぜ特定の行動をとるのか、どうしてある結論に至ったのか、あるいは将来どのような行動をとるのかをきちんと説明することができない。(p174)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
人は理性的な存在であり、あらゆる場面で肯定的な意見と否定的な意見を比較し、明らかになっている事実をベースにして合理的な判断を下すものだと考えられてきた、しかし現在では、この考え方は脳の働きを正しく表したものではないことが明らかになってきている。(p170)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
「自分のことをちゃんと見ていてくれる」という感覚と、「自分のことを監視している」という感覚の間には、紙一重の差しかないのである。(p234)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
ほとんどの場合、人々が強い絆を結んでいる相手は10人に満たない。5人に満たないという人も多いだろう。人は「親友」と呼ばれるグループを、非常に小規模に保つものなのである。3000名の米国人を対象にしたある調査によると、彼らが持つ強い絆は2人から6人の間だった。(p107)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
強い絆とは、親友や家族などの存在を指す。彼らは最も信頼できる人々であり、心理面での支援を求める相手でもある。私たちが幸福を感じるうえで、強い絆は非常に重要な存在だ。強い絆を持つ人々は心臓病の発症率が低く、カゼやインフルエンザにもなりにくいことが研究によって明らかになっている。(p105)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
リズ・スペンサーとレイ・パールは研究を通じて、人間関係を次の8つのタイプに分類している。
*知り合い
相手をそれほど詳しく知っているわけではないが、趣味やスポーツなど共通の話題を通じてつながっている人々。
*情報源
情報やアドバイスを共有し合う人々(特に仕事やキャリアに関係する分野であることが多い)。
*遊び友だち
主に楽しむ目的で集まった人々。それほど深い関係を築くことはなく、心理面で支援を与え合うこともない。
*協力者
心理面ではなく、実務面での支援を与え合う人々。
*仲間
「遊び友だち」と「協力者」の両方の側面を持つ人々。遊ぶために集まったり、実務面で助け合ったりする。
*癒し手
仲間に近いが、心理面での支援を与え合う人々。
*相談相手
一緒にいることが楽しく、お互いに秘密を打ち明け合うような人々。しかし実務面での援助を提供する立場にはない。
*親友
非常に親しく、これまでの7つの要素を併せ持つ人々。
「相談相手」と「親友」の数は非常に少なく、5人未満であることが多い。
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
多くの研究の結果、私たちは他人と「6次の隔たり」でつながっているが、影響力については3次までで、つまりつながりを3回たどった地点にいる人物までであることが明らかになっている。言い換えれば、友人の友人の友人までが私たちに影響を与えるわけだ。(p82)
ウェブはグループで進化する  ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」
人は平均で4から6のグループに属しており、それぞれのメンバーは10人に満たないことが多い(メンバー数の平均は4人である)。同じグループに属するメンバーは同士はお互いに顔見知りだが、他のグループに属する人々とは面識がない。(p78)
「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)
日本人が集団主義的にみえるのは、このように個人が存在せず、「世間」という集団のなかに個人が埋没しているようにみえるからである。また日本人が没個性的にみえるのも、個人が存在せず、集団の「意思」だけが前面にあらわれるようにみえるからである。(p64)
「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)
わが国では、「意思」は相互に依存している関係のうちからしか形成されないので、自己決定は「自己」がする決定になっていないのだ。(p63)
「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)
古くから「世間」のなかで人は「ほかの人間たちに基準を求め」てきたのであり、また「他者との絆を顕示することで」、つまり自分がどういう「世間」に属しているのかを協調することで自分を表現してきた。これはまさに十二世紀以前のヨーロッパと同じである。(p59)
「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)
個人が存在しないということは、いわゆる西欧流の自己決定や意思決定が存在しないということでもある。(p60)
「世間」の現象学 (青弓社ライブラリー)
私たちがある困難な課題をかかえて意思決定しなければならないときに、もっとも自然な方法は「なるべくしてなった」というやり方である。柄谷行人は、わが国では自発性と構造的強制があいまいにからまりあっており、作為と自然の二項対立が成立しえず、意思決定はいつも「いつのまにかこう成ってしまった」というようになされるという。(p61) [x]
菊と刀 (講談社学術文庫)
このような神経過敏さは、人と競争して負けた場合に特に顕著に現われる。それは就職のさいに自分以外の人が採用されたとか、あるいはまた、当人が競争試験に落第したにすぎないことがある。歯医者はそのような失敗のために「恥をかく」。そしてこの恥は、発奮の強い刺激になる場合もあるが、多くの場合は危険な意気消沈を引き起こす原因となる。彼は自信を失い、憂鬱になるか、腹をたてるかどちらか、あるいは同時にこの両方の状態におちいる。彼の努力は阻害される。
--出典: 菊と刀 (講談社学術文庫)
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菊と刀 (講談社学術文庫)
日本の子供たちは競争を遊び半分に考えおり、対して気にかけない。ところが青年や成人の場合には、競争があると作業能率がぐんと低下した。単独でしている時には良好な進歩を示し、しだいに間違いの数も減り、速度も増していった被験者が、競争相手といっしょに仕事をさせると、間違いしだし、速度もはるかに遅くなった。彼らは彼らの進歩を、彼ら自身の成績と比較しつつ測定する時に、最も良好な成績を挙げた。ところが、他人と比較測定する場合にはそうはゆかなかった。この実験を行った数人の日本人学者は、競争状態に置かれた場合にどうしてこのように成績が悪くなるか、という理由を正しく分析している。彼らの説明によれば、問題を競争でやるようになると、被験者たちは負けるかもしれないという危険にすっかり心を奪われ、仕事の方がおるすになってしまう。彼らはあまりにも鋭敏に、競争を外から自分に加えられる攻撃と感じる。そこで彼らは、彼らが従事している仕事に専念する代わりに、その注意を攻撃者との関係に向けるのであった。
--出典: 菊と刀 (講談社学術文庫)
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世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)
日本の教育者たちは、「個性化・多様化」などと、何を馬鹿なことを言っているんだ。我々はキリスト教のモラルにどっぷり浸っているから、自由とか個性とか言ってもそれほどバラバラにならないが、日本にはそういうバックボーンがないだろう。せっかく心優しい日本人たちが『他の人々はどう感じているか』ということをモラルの基準にして世界でもまれな『思いやり』に満ちた国を作ってきたのに、個性化・多様化などということをしたら社会全体がバラバラになってしまうぞ(p155 オーストラリア人の英語教師の言葉より)
世間さまが許さない!―「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」 (ちくま新書)
実は日本人の「世間さま」による基準は、一見すると保守的で硬直的に見えるが、実は「うつろい得る」という点で高度の柔軟性・適応性・創造性を秘めているのである。(p233)
「世間」とは何か (講談社現代新書)
教徒たちは、たがいに同行・同朋とよんで結びついていた。このような同朋集団は「門徒の老」を中心として結びつき、寺院を持たない。道場を共同で維持し、土地や建物などは門徒惣中(そうちゅう)の共有であった。いわば彼らが日本で初めて平等観を打ち立てたといえよう。(p110)
--出典: 「世間」とは何か (講談社現代新書)
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「世間」とは何か (講談社現代新書)
「真宗農民の所では神棚や神札、路傍の祠(ほこら)など一切ない。門松や盆棚や位牌もなく屋敷神もいない。法名軸が位牌の代わりに仏壇の横にかけてあるくらいである」(「親鸞と習俗」)。
現在でも教団としては位牌を公的に禁止されているのである。またよく知られているように真宗においては墓をつくらないところも少なくない。いわゆる無墓制である。わが国の歴史を貫いている御霊信仰の一端を知るものにとっては親鸞の教えが持つ画期的な意味は明らかであろう。たとえば児玉識氏が述べているように今でも周防笠佐島などには近世以来の無墓制を守ってきた信徒たちがいる。興味深いのは無墓制であるために日柄や方角に関する迷信やタブーの弱い生活を送っている点である。島全体に講は形成されているが、その運営は輪番制であり、特権者はいない。このような横のつながりの強さは児玉氏によると先祖信仰の弱さと深い関係にあるという。他の地域から嫁に来た女性達は、共同体規制があるにもかかわらずこの島の住みやすさを評価しているとのことである。(p108)
--出典: 「世間」とは何か (講談社現代新書)
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「世間」とは何か (講談社現代新書)
いつの時代においても商業こそ自由と平等の契機なのであった。個の自覚こそその出発点にあり、それはまず恋愛という形で姿を表したのである。恋愛こそ身分制度の桎梏を超えて人と人を結びつける重要な契機であり、それ故に身分を超えた恋愛は厳しい取締りの対象になっていたのである。(p124)
--出典: 「世間」とは何か (講談社現代新書)
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「世間」とは何か (講談社現代新書)
日本人は一般的にいって、個人としての自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である。その世間を構成する人間が消えてゆくとき、それは自分の身を保たせてきた安定が失われかねないこととして受けとめられるのである。(p137)
--出典: 「世間」とは何か (講談社現代新書)
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暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
まじめ、責任感が強い、几帳面、仕事熱心、堅実、清潔、権威と秩序の尊重、律儀、やさしさ、対人的気配り、仲間への配慮などの「メランコリー親和型」の人間が、過労死・過労自殺しやすいという(大野正和『過労死・過労自殺の心理と職場』青弓社、2003年)。「メランコリー親和型」の人間とは、「他人のために献身的に尽くす人間」である。(p96)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
「自己責任」「自発性」「成果」という考え方は、西欧の個人や社会の成立を前提としたものである。産業医の荒井千暁さんは、現在職場に生じている事態を「昨日まで儒教思想が重んじられる年功序列社会で働いていた日本人が、欧米社会にある日突然乗り換えようとチャレンジしている」(新井千暁『職場はなぜ壊れるのか』ちくま新書、2007年)という。
これら「自己責任」「自発性」「成果」といった原理を「世間」しかない職場に導入した場合に、個人が存在しないために従業員間のあつれきの原因となり、これが引き金になって睡眠障害、自律神経の乱れ、うつ病を発症することが多い。(p99)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
夫の側が、家庭は「癒しの場」や「憩いの場」だというときには、根底にはこの「母子関係」がある。つまり、自分が癒される場所、憩える場所だと考えている。そかし妻の側にとって、家庭はあくまで「夫を癒してあげる場」や「夫を憩わせる場」なのである。そこに「癒される自分」は存在しない。このちがいは決定的である。(p128)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
日本の夫婦をつなぐ原理とはいったい何か?
それは「愛」ではなく、「母子関係」である(もちろん、吉本ばななの『キッチン』のように、男と女の立場が逆転していてもかまわない)。日本では夫婦関係は当初は恋愛関係や男女関係であるかもしれないが、しだいに「夫婦愛」ともよばれる、ある種静かな関係にかわるのが理想だと考えられている。
つまり一般に日本では、恋愛が恋愛として完結しない。恋愛関係はいずれ壊れるか、壊れなければ「母子関係」に移行するかどちらかになる。(p128)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
「世間」の本質は共同幻想であるが、ある場合には社会を意味し、ある場合には親族や家族も含むという、きわめてあいまいな共同幻想である。〈中途略〉
このことは、息子が犯罪をおかして警察に逮捕されたようなときに、家族は「世間」に対して対抗できるような原理をもたないことを意味する。西欧の家族の場合には、社会と対抗できる愛情原理をもつために、どんなことがあろうと、まず社会から家族を守るのがあたり前である。たぶん堂々、顔を出して「息子は無罪だ」という記者会見を開くだろう。
ところが日本の家族の場合には、逮捕された息子は悪くないと思っても、まず「世間」に、「世間をお騒がせて申し訳ありません」と謝罪しないといけない。もちろん、子どもを愛していないからではない。家族が、「世間」にたいして対抗できるような愛情原理をもっていないからである。(p124)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
奇妙なことに、日本の家庭で夫婦がお互いをよぶときに、「ママ」「お母さん」や「パパ」「お父さん」がつかわれる。子供が親をよぶときの名前が、そのまま夫婦の呼称になっているのだ。これは、そもそも夫婦がお互いに一個の人格として向き合っているのではなく、あくまで子どもを媒介として向き合う関係であることを示している。(p128)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
社会学者の桜井陽子/桜井厚さんが面白いことをいっている。核家族の絶頂期だった七一年に、東京・文京区でおこなわれた「家族のイメージ」についての調査で、夫側の過半数が「生活にかくことのできない便利な場所」を、妻側の過半数が「夫や子供を憩わせる場所」を選び、「夫婦の愛情を育てる所」「人間として磨きあえる所」はきわめて少数であったという。
また妻のいう「いい夫」とは、「妻子ために一生懸命働く」「頼めば家事もやる」「給料をちゃんと運ぶ」「子供にやさしい」夫のことだと桜井さんは指摘する。たしかにいまでも、夫を過労死でなくしたような場合に、先立たれた妻は「家族をとても愛してくれたよい夫だった」という言い方はよくするが、「自分を愛してくれた」という言い方はあまりしない。
つまりここには、西欧の家族では当然の前提とされる、男女である夫婦の「愛」が存在しない。恋愛が存在しないといってもいい。日本の家族は結局のところ、会社と同じように「公」ととらえられ、それに「滅私奉公」する人物像がまさに「よき夫」「よき妻」であった。
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
阿部(謹也)さんの「世間」論が衝撃的だったのは、日本には「世間」はあるが、社会など存在しないと主張したことである。これは、一般に強い衝撃を与えたが、とくに日本のほとんどの人文・社会科学に関わる学者の顰蹙を買うことになった。
なぜか?
日本のほとんどの人文・社会科学は西欧からの輸入品であり、それは西欧の社会を前提としたものであったために、大多数の学者は、日本にも社会が存在し、自分もそのなかで生きていると信じていたからである。(p15)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
「世間」とはいったい何か。
「世間」はかつて西欧にもあったが、いまでは西欧にはなく、ことに先進工業国では日本にしかないような、人的関係のあり方である。(p10)
暴走する「世間」―世間のオキテを解析する (木星叢書)
十一、二世紀にキリスト教会は「告解」の制度をつうじて、当時民衆の間にまんえんしていたゲルマン的な俗信・迷信を、「異端の教え」として徹底的に否定した。俗信や迷信をおこなった者に、さまざまな贖罪を科してそれを禁止したのだ。前にものべたように、この神への告白と都市化によって、「世間」が否定され、個人や社会が形成された。(p136)
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