感傷主義は、産業社会のなかでイデオロギーと信仰の基層に横たわる一種の複合現象である。それは、産業社会のさまざまな活動によって破壊される諸価値こそが、まさしく産業社会自身が大事に育てているものだということを表明する。それは、いまや人間生活の自立・自存の基盤ー経済成長によっていやおうなしに破壊される生活自立の基盤ーに帰されるいろいろな価値が、まさしく経済成長がつづくためになくてはならないものなのだということを表明する。それは、生活の自立・自存の基盤を経済の影法師の姿へと変化させる。感傷主義は、生産と消費との対立のなかで暗黙のうちに、生活の自立と自存への郷愁をあやつることによって、隔離体制を首尾よく処理する。そうして、郷愁がかきたてるこの「人間生活の自立・自存の基盤」はヴァナキュラーな領域の反対側にある経済の影となることがわかるのである。隔離体制の犠牲者たちー女性、患者、黒人、無学者、低開発国の人々、中毒者、敗残者、プロレタリアートーへの感傷的な賛歌は、すでに人が降伏してしまった権力にたいする儀式的な抵抗への道を提供する。人間生活の自立・自存のために必要とするその環境を強奪してきた社会において、何ひとつその代わりとなるものが知られない場合には、この感傷主義はごまかしなのである。そのような社会が拠りどころとしているのは、社会が世話をし管理しなければならない者についてたえず新たな<診断>を行うことである。そしてこの温情主義的ごまかしこそは、抑圧された者の代表者たちが、たえず新たな抑圧へと向かう権力を追い求めることを可能にするものなのである。
ヴァナキュラーというのは、「根づいていること」と「居住」を意味するインド-ゲルマン語系ののことばに由来する。ラテン語としてのvernaculumは、家で育て、家で紡いだ自家産、自家製のもののすべてにかんして使用されたのであり、交換形式によって入手したものと対立する。自分の妻の子、奴隷の子、自分が所有する家畜のろばから生まれたろばは、ちょうど菜園や共有地からとれた基本的な生活物資のように、ヴァナキュラーな存在である。…すなわちそれは、生活のあらゆる局面に埋め込まれている互酬性の型に由来する人間の暮らしであって、交換や上からの配分に由来する人間の暮らしとは区別されるものなのである。
今日にいたるまで、経済の発展はつねに、人々が物をつくるかわりにこれ以降買うことができるようになる、ということを意味してきた。市場をこえている使用価値が商品に置きかえられるのである。経済の発展=開発はまた、商品なしに暮らすことを可能にしていた諸条件が物理的・社会的・文化的環境から消え去ったがゆえに、まもなく人々が商品を買わざるをえなくなるということも意味している。そうなると環境は、物資やサーヴィスを金銭で買う能力のない者によって使用されることがもはや不可能となる。
…「生き生きとした共生のための用具」においては、いかに経済成長が使用価値を創りだすことのできる環境を破壊するかを示した。この過程を私は「貧困の現代化」と名づけた。なぜなら現代社会においては最も購買力のない者がまさしく共用地の利用上の価値から最も遠ざけられている者でもあるからだ。この事実を私は「必要なものの充足にたいする、商品による徹底した独占」に起因するものと考えた。
…「生き生きとした共生のための用具」においては、いかに経済成長が使用価値を創りだすことのできる環境を破壊するかを示した。この過程を私は「貧困の現代化」と名づけた。なぜなら現代社会においては最も購買力のない者がまさしく共用地の利用上の価値から最も遠ざけられている者でもあるからだ。この事実を私は「必要なものの充足にたいする、商品による徹底した独占」に起因するものと考えた。
サーヴィスのエキスパートたちが人々の「面倒を見ている」あらゆる領域で、これらの専門家たちは、素人、言い換えると客を自分たちの監視のもとに無報酬で働く助手として引き入れようと躍起になっている。こうした自助の術作によって、産業化社会の基本的分岐が家庭の内部に投影されている。誰もかれもが、消費者としての自己の欲求を満足させるのに必要な商品を個人的に生産する者となっているのだ。<シャドウ・ワーク>のこうした新たな拡張を進めるべく、代替策、非集中化、意識化などといった語は、それらを用い始めた人々が考えていた意味と正反対の意味を帯びさせられている。人間生活の自立と自存にとっての<ヴァナキュラーな領域>に固有な活動と<シャドウ・ワーク>との区別を明らかにし、理解をうながさないならば、自己満足と自己監視の経済が80年代をとおしての第一の成長部門となることであろう。
19世紀初頭以来の歴史を見てみると、貨幣化経済の発展にともなって、それを補足する非貨幣的要素が形成されてきたということがわかる。それらはともにひとつの経済空間を構成し、どちらも同じく、産業化以前の社会において優勢であるものとは無関係である。実際、より直截にいってみるなら、産業化とともに、報酬は受けないがしかし家庭を市場から独立させることにはなんら貢献していないある種の労働が出現したのである。事実、この新たな種類の活動、すなわち、生活資料の生産にはかかわらない家庭という新たな空間における主婦の<シャドウ・ワーク>は、賃金労働者である夫の生活の必要条件となり、彼を雇用ー正式に申告をして課税の対象となるものにせよ、もぐりの労働にせよーへと物質的にしばりつけている。
生理的なプロセスになぜ医療行為を積み上げるのかと言えば、答えはむしろ逆であろう。出産が生理的なプロセスだからこそ医療介入によって医学の文脈にのせようとするのであり、そうすることで出産を医学的な経験へと作り替えることができるのである。医療は、現代社会の中で非常に大きな力をもつ文化と言える。それは、クナにとってコスモロジーが大きな力を持っていたように、現代人にとっては真実なのである。自然なプロセスがそれぞれの文化によって加工されるとき、現代社会の出産は医学の文脈で形作られ加工されることになる。それが可能になるのは、出産はどのような形にもなりうる自然(生理)のプロセスだからであり、文脈によって自由に形を変えうるものだからであろう。
--出典: 妊娠と出産の人類学―リプロダクションを問い直す
しかし、すべてがことばに置き換えられるわけではなく、身体はときといsてことばにならない痛みや予想を超えた難産を経験することがある。シャーマンのことばは、そのような体験にことばを与え、受け入れがたい苦痛を受け入れられるようにするのである。そして、それが意味を持つのは、シャーマンの語るムウの道や魂を取り戻す物語が、クナの人々にとって真実とされているからであり、人々に共有されているからだ。こんなふうに、レヴィ=ストロースは出産が人々の信念に支えられていること、それを利用して物語が難産を救う力をもつのだと述べている。
出産がその文化のコスモロジー(世界観)と密接に関わっていることは、現代日本でも同様だ。…それが神への信仰か医学への信仰かの違いはあっても、人々の世界観に基づいている点で同じである。誕生や死という特別のできごとには、その文化の世界観が大きく表れることや、それらの世界観が必ずしも合理的なものでなくても、人々の行動や経験を左右する力があることが、このクナの例から明らかになる。
出産がその文化のコスモロジー(世界観)と密接に関わっていることは、現代日本でも同様だ。…それが神への信仰か医学への信仰かの違いはあっても、人々の世界観に基づいている点で同じである。誕生や死という特別のできごとには、その文化の世界観が大きく表れることや、それらの世界観が必ずしも合理的なものでなくても、人々の行動や経験を左右する力があることが、このクナの例から明らかになる。
--出典: 妊娠と出産の人類学―リプロダクションを問い直す
現代人にとっては荒唐無稽に見えるムウの道や失われた魂、斑点のあるワニの物語が、なぜクナの女性にとって、身体の器官の反応を引き起こすまでにリアルなものと感じられるのだろうか。それは、レヴィ=ストロースによれば、その物語がクナの女性にとって真実だからである。…それはちょうど現代日本の女性が出産を医学のことば、たとえば子宮口が全開大になったとか、陣痛が微弱であるとか、赤ん坊の旋回に異常があるなどのことばで理解しているのに等しい。…このように、出産はそれを理解することばや概念、それらを生み出す世界観の中で成立し、女性はそのようなことばを用いて自らの出産を経験している。ことばを離れて自分の体験を認識することは不可能であり、ことばや概念が出産を形作ることになる。
--出典: 妊娠と出産の人類学―リプロダクションを問い直す
松岡:自己決定権というときに、現実的には残された選択肢のなかから選んでいることが多いと思うんです。子どもを産むについても、じっさいにはいろんな社会的な制約のなかで、ある選択肢を採用し、それは選ばざるを得なかったのに自己決定と言わされる。文化というのはかなりの抑圧装置だから、あるひとつの選択肢の方向だけを示してしまう画一性とか方向性を持っているでしょう。だから文化や電動が枠としてあるところは選択肢が少なくて、わたしたちのような社会はテクノロジーも含めて実は選択肢はたくさんあるのかな、という気もしますね。
甲斐:選択肢があるという情報を充分知らない人が多いんです。現実はあるのに、それらがどういう意味を持っていて、「こうすればこうなる」と正しく伝達するものがないので右往左往する。ちょっとした関連雑誌が出れば、それが本当かなあと思ったりするんですね。
甲斐:選択肢があるという情報を充分知らない人が多いんです。現実はあるのに、それらがどういう意味を持っていて、「こうすればこうなる」と正しく伝達するものがないので右往左往する。ちょっとした関連雑誌が出れば、それが本当かなあと思ったりするんですね。
永山:…自己決定できる環境が整っていないのです。また、技術が進歩すればするほど細かいことがわかってしまうことで、あるがままの姿を受け入れる社会をつくらないと、逆にいえば、産んだときに周囲から「わかっていながらなぜ産んだ」と非難される。
甲斐:日本では真の自己決定はできにくい。自分が選択したら、周囲からどう言われるかという不安ばかりが先立つようですね。
甲斐:日本では真の自己決定はできにくい。自分が選択したら、周囲からどう言われるかという不安ばかりが先立つようですね。
柘植:…ではなぜ「自然」出産を求めるかというと、自然がいいものという、ひとつの価値観というか、イデオロギー性があると思うんですね。
秋道:何でも自然がいいという価値観がある。例えば無農薬のものだったら病気にならないとか。出産においては自然は母体にいいのか、子どもにいいのか、どちらなんですか。
柘植:わたしが言いたいのは。自然ということについて人それぞれに、自分の生活または都合に合うように定義づけているということです。
秋道:原自然なんてありえないと思いますが、自然というのは文明化されて医療化されたものにたいするひとつのアンチテーゼみたいなもので、何かそこに置いておかないと、不安だというものを確保してある。
田中:かなり技術的に、この日に産みたい、あるいはこの日に産ませたいという事情で、薬の投与とかホルモンのコントロールができますよね。そういうことが行われるようになって自然出産という言葉が出てきたのか、もっと以前からか…。
松岡:…70年代あたりから非常に機械化されて薬も使ったおさんが出てきて、それにたいするアンチでテーゼとしての意味もあると思いますね。
秋道:化学肥料農業にたいする有機農業みたいなものですね(笑い)。
秋道:何でも自然がいいという価値観がある。例えば無農薬のものだったら病気にならないとか。出産においては自然は母体にいいのか、子どもにいいのか、どちらなんですか。
柘植:わたしが言いたいのは。自然ということについて人それぞれに、自分の生活または都合に合うように定義づけているということです。
秋道:原自然なんてありえないと思いますが、自然というのは文明化されて医療化されたものにたいするひとつのアンチテーゼみたいなもので、何かそこに置いておかないと、不安だというものを確保してある。
田中:かなり技術的に、この日に産みたい、あるいはこの日に産ませたいという事情で、薬の投与とかホルモンのコントロールができますよね。そういうことが行われるようになって自然出産という言葉が出てきたのか、もっと以前からか…。
松岡:…70年代あたりから非常に機械化されて薬も使ったおさんが出てきて、それにたいするアンチでテーゼとしての意味もあると思いますね。
秋道:化学肥料農業にたいする有機農業みたいなものですね(笑い)。
システム化された出産に対して、人間的な出産のあり方を求める運動は、すでにあちこちで始められている。それらは、「過剰介入」に対して「自然の尊重」を、「管理」に対して「自由」を、「専門家の支配」に対して「産む側の主体性と権利」を対置する。そして、医療の対象として身体へと部分化された分娩ではなく、家族の出来事としての社会的・文化的にトータルな出産をめざしていく。
子どもを産み育てることは、まさにこの「時間の無駄」を膨大にすることなのだが、M・エンデによれば「時間の無駄」こそが輝ける永遠の時間としての「時間の花」(意味の源泉)へと至る道なのであった。子どもという弱者とともに生きるこどは、我々に、意味の源泉へのひとつの道を開いてくれるとは言えまいか。
したがって、マイナス感の第二の根拠は、現代社会の倒錯した価値観そのものにある。出産・育児の世界においては、引っ張るのではなく「待つ」こと、力まないで「リラックス」すること。ありのままの自己と他者を「受容」することが大切である。が、業績達成に重きを置く現代の競争社会では、逆に、ゆっくりと機が熟すのを待っていないで積極的・主体的に攻めて「達成」すること、「緊張」すること、自己と他者をを「制御」することが必要である。現代産業社会の成功者、業績競争社会で自己実現を素早くなし遂げる者は、「達成」「緊張」「統制」の達人である。産育世界の「待機」「リラックス」「受容」の価値は、産業社会の「達成」「緊張」「統制」の価値と、背反している。
したがって、マイナス感の第二の根拠は、現代社会の倒錯した価値観そのものにある。出産・育児の世界においては、引っ張るのではなく「待つ」こと、力まないで「リラックス」すること。ありのままの自己と他者を「受容」することが大切である。が、業績達成に重きを置く現代の競争社会では、逆に、ゆっくりと機が熟すのを待っていないで積極的・主体的に攻めて「達成」すること、「緊張」すること、自己と他者をを「制御」することが必要である。現代産業社会の成功者、業績競争社会で自己実現を素早くなし遂げる者は、「達成」「緊張」「統制」の達人である。産育世界の「待機」「リラックス」「受容」の価値は、産業社会の「達成」「緊張」「統制」の価値と、背反している。
ひとつの生命をこの世に送り出すことは、愛らしさと共にうっとおしさを、楽しさと共にしんどさを、喜びと共に苦悩を、引き受けることである。子どものいる人生は、単に愛らしさや楽しさや喜びに満ちているだけでなく、うっとおしさやしんどさや苦悩にも浸されている。その上、未成熟な子どもは、大人に対して社会的弱者である。だから、子どもを産むことは「弱者と繋がりながら生きる」ことになる。弱者を抱え込んだ人間は、能率よく動けない。業績達成に重きを置く現代社会の競争の場で、「弱者と繋がりながら生きる」ことは不利である。
作家の第一の責務は、意見をもつことではなく、真実を語ること…、そして、嘘や誤った情報の共犯者になるのを拒絶することだ。文学は、単純化された声に抵抗する、ニュアンスと矛盾の住み処である。作家の職務は、精神を荒廃させる人やものごとを人々が容易に信じてしまう、その傾向を阻止すること、妄信を起こさせないことだ。作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が詰め込まれた世界を、ありのままに見る目を育てることだ。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
意見にまつわるもう一つの問題。意見には自己固定化の作用がある点だ。作家がすべきことは、人を自由に放つこと、揺さぶることだ。共感と新しい関心事へと向かって道を開くことだ。もしかしたら、そう、もしかしたらでかわまない、いまとは違うもの、より良いものになれるかもしれないと、希望を持たせること。人は変われる、と気づかせることだ。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
文学じたいは、私たちの個人としての運命と共同体としての運命の、複数の本質を指し示さなければならない。私たちがもっとも大切にしているもろもろの価値には、矛盾も、ときには緩和しえない対立もありうる(「悲劇」とは、まさにこのことを指す)、ということを想起させること。文学は「これもまた」とか「他にも」といった別の存在に気付かせる仕事だ。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
さまざまな現実を描写すること、それも作家の仕事だ。汚れた現実、歓喜の現実。文学(文学の功績という多元的なもの)が今日する叡智の精髄は、何が起きていようと、つねに、それ以外にも起きていることがある、という認識を助けることだ。
この「他にも何か」ということが、私の頭を離れない。
この「他にも何か」ということが、私の頭を離れない。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
作家の第一の責務は、意見をもつことではなく、真実を語ること…、そして、嘘や誤った情報の共犯者になるのを拒絶することだ。文学は、単純化された声に抵抗する、ニュアンスと矛盾の住み処である。作家の職務は、精神を交配される人やものごとを人々が容易に信じてしまう、その傾向を阻止すること、妄信を起こさせないことだ。作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が詰め込まれた世界を、ありのままに見る目を育てることだ。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
けだし、作家はこういう意見表明機(オピニオン・マシン)になってはならない。アメリカのある黒人の詩人の話だが、自分と同じアフリカ系アメリカ人たちに、人種主義の屈辱についての詩をなぜ書かないのかと責められて、「作家はジュークボックスじゃない」と答えたという。
--出典: この時代に想うテロへの眼差し
狂気の古典主義的な経験が生まれる。十五世紀の地平に登場した狂気の非常な威嚇はやわらぎ…。今ではそれらは透明であり、従順であって、止むを得ず理性のお供として後に従っている。…狂人の舟が寿命をまっとうして一世紀ばかり過ぎさると、〈狂人施療院〉という文学上の主題があらわれるのが認められる。…そこでは、それぞれの狂気の型に応じて、整備された居場所、符牒、そして守護神がおのおの定められている。…無秩序の世界のこうした住人たちは、今度はきわめて秩序正しく、〈理性〉の礼讃を口にする。(阿呆船への)乗船に続いてこの《施療院》ではすでに監禁が行われている。…狂気が小説や演劇の虚構作品のなかにきわめてしばしば見いだされることに驚くまい。…狂気は、社会的な景観のなかにきわめて親しみ深いシルエットを描いているのである。…十七世紀初頭のこうした世界は、不思議なほど狂気を大切に保護している。そこでは、事物や人間にとりかこまれて、狂気は、真なるものと空想的なものの目印をごちゃごちゃに混ぜ返す皮肉な徴表であって、大いなる悲劇的な威嚇の思い出をほとんど残していはいない。だが、新しい無理強いが芽生えつつある(p.57-59)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
このように真剣さをなくしたからといっても、狂気がきわめて重要であることにかわりはない。…空想が最高潮に達しているとしても、それを出発点にしているからこそ、空想がうちくだかれるのだから。…狂気は、偽りの事件の完了が課す偽りの処罰であるけれども、狂気固有の力によって、真実の問題をうかびあがらせ、その結果、その問題もほんとうに解決されるにいたる。…狂気は、思い違いのもっとも純粋でもっとも完全な形式である。…狂気はまた、演劇の仕組みのうえで思い違いをもっとも厳密な意味で必要とする形式でもある(例:スキュデリー『喜劇役者たちの喜劇』における演劇の演劇)。こうした気違い沙汰を通して、演劇はその真実、幻想である真実をくりひろげる。(p.56-57)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
セルバンテスやシェクスピヤでは、狂気はつねに、それには救いがないという点で極端な位置をしめている。狂気はいかなるものによっても、真理や理性につれもどされない。狂気の通路の先には、裂け目、そこからさらに死しか存在しない。…狂気が…突然、知恵を示したことは、「彼が何か新しい狂気にとらえられた」ことにほかならない…結局、死じたいによってしか一刀両断に解決されないものなのである。狂気の消滅は、最期が近づいていることと同じである。…しかしごく速やかに、狂気は…資の領域から離れる。十七世紀初頭の文学では、小説や演劇の作品構造の仕組みのなかに移されてしまった狂気は、真理を表明したり理性を穏やかに復帰させる場合の口実の役目をはたす。その理由は、狂気はもはや、その悲劇的現実において、あの世へ狂気を導く絶対的な悲痛さにおいて考察されずに、ただ単に狂気のもつ幻想の皮肉を通して把握されているからだ。狂気は現実の懲罰ではなく、懲罰の写し、従って見せかけであり、犯罪の仮象や死の幻影としか結びつくことができない。…つまり、狂気が懲罰や絶望となるのは、錯誤の次元においてでしかないのである。(p.54-56)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
狂気の最後のタイプとして、絶望せる情念による狂気がある。…(裏切られた恋の)相手がなくなり、ただ一人になってしまうと、狂気の恋心は、空虚な錯乱のなかで自分を追い求める結果になる。それは、みずからの狂暴さに自分をゆだねすぎた情念にたいする懲罰であろうか。おそらくそうだろうが、この罰は慰藉でもあり、埋められることのない相手の不在にたいして、想像上の存在をつくって広くあわれみをかけ、逆説的な無邪気な喜びや英雄趣味の気違いじみた探索を通して、姿を消している相手の形を、ふたたび見いだす。…彼ら(このタイプの狂気を描いたシェイクスピア、セルバンテスら)は…批判的で倫理的な〈非理性〉経験の証人であるよりも、やはり依然として、十五世紀に生まれた悲劇的な〈狂気〉の証人であるに違いない。時代をこえて彼らは消滅しつつある。…ところが彼らの作品および作品が維持しているものを、彼らの同時代人や模倣者たちの場合に生み出されている狂気の意義と比較照合することによってこそ、この十七世紀初頭に文学の狂気経験のなかで進行している事柄が解読されうるだろう。(p.54)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
正当な懲罰を与える狂気も、やはり道徳の世界に属する。この狂気は、精神の混乱によって、心情の混乱を罰するのだが、その他の力も持っている。というのは、狂気によって加えられる懲罰は、それが罰しつつ真実をあばくにつれて、あすますその数が増えていくからである。この狂気の制裁には、それが正当であるという特色がある。正当というのは、すでに罪人は、幻影がむなしく渦巻くなかで、将来ずっと自分に加えられる懲罰の苦痛を感じているのだから(例:『メリット』)。…正当であるという別の理由は、すべての人の目に隠されている犯罪が、奇異な懲罰が加えられる夜に、明るみに出るからであって、…狂気が自分の事態を打ち明け、妄想のなかで自分の秘密の真実をのべ、良心のかわりに叫び声をあげてしゃべりだす(例:『マクベス』)。(p.53-54)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
この第一の狂気と隣接するのが、無益な傲慢から生まれた狂気である。だが今度は、狂人が同一化する対象は、ある文学上の規範ではなくて、狂人自身なのであり、しかも想像上の同意のはたらきによって、狂人に欠けているあらゆる長所、あらゆる力が自分に貸与されているような気持ちになるのである。…これは、どんな人間の心にもある、自分との想像上の関係である。人間のもっとも日常的な欠陥が生まれるのも、この種の狂気のなかであり、それを摘発することは、あらゆる道徳批判の最初にして最後の領域である。(p.53)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
十六世紀末と十七世紀初頭…の文学は、自己を探求する理性を制御しようと務めながら、狂気の現存、理性の狂気の現存を認知し、それを取り囲んで攻め、最後にはそれを征服する一つの芸術である。バロック時代の動き。…まず第一は、空想的な同一化による狂気…。さまざまの空想が作者から読者へ伝えられるわけだが、前者では幻想だったものが後者では心象となり、作家の巧妙なやり口がごく素直に現実の姿として受け入れられる。…芸術作品における現実と想像の関係についてや、またおそらく、幻想的な虚構と錯乱のもたらす魅惑のあいだにある混沌とした交渉についての不安感がそっくり見られるのだ。「芸術の創出は、錯乱した想像力の賜物である。画家や詩人や音楽家の思いつきとは、彼らの狂気をいいあらわすために礼儀上、手加減がくわえられた名称にほかならぬ」(p.52-53)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
[2]狂気は、理性の諸形態そのものの一つとなる。狂気は理性の一部になって、その秘密の力の一つ、あるいは理性のあらわれの契機の一つ、あるいは理性が自分を自覚する逆説的な形式の一つを構成する。…真の理性は、痴愚とのどんな係わり合いをも免れるわけにはいかない。それどころか、それは痴愚によって示される道をえらばねばならないのである。…この道がゆきつく先には、どんな最終的な知恵もないとしても、この道が約束する至福の城が実は蜃気楼と新たな痴愚にすぎないとしても、この道はそれ自体としては知恵へいたる道なのである。まさしく、それこそ痴愚へいたる道であることを心得つつそれをたどっていく場合には。…この痴愚(狂気)をどこに位置づけるべきかというと、理性じたいのなかに、理性の諸形態の一つとして、恐らくは理性の支えの一つとして位置づけるほかあるまい。…「狂気の混ざらぬような偉大な精神は存在しない。…そういう意味で、賢者ともっとも優れた詩人たちは気がふれたり、時には激昂することを容認したのであった」…しだいに狂気は無力にされ、…理性によって取り囲まれている狂気は、理性のなかに、いわば受け入れられて植え込まれたようになる。…理性に内在的な狂気の発見、つぎに、そのことに由来する二重性…。この二重性とは、一方では、理性に固有な狂気を拒否し、それを排除しつつもそれを倍加し、その倍加によって、狂気のなかのもっとも単純でもっとも閉じられもっとも無媒介な狂気に陥っている《狂った狂気》であり、他方では、理性のもつ狂気を受け入れ、それに耳をかたむけ、その市民権を容認し、その激しい力の侵入をそのままにしている《おとなしい狂気》である。…今や、狂気の真理はもはや理性の勝利およびその決定的な制圧とまったく同じ…。狂気の真理とは、狂気が理性にとって内的であり、いっそうよく自分を確保するために理性の一形姿・一つの力・いわば一つの必要である、という点にある。(p.49-52)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
批判的考察の特権は、いかにして十六世紀に組み立てられたのだろうか?
[1]狂気は、理性と相関的な形式になる。あるいはむしろ、狂気と理性は、相互にいつまでも置換しうる関係をもつにいたる。この可逆関係によって、どんな狂気も、判断し統御してもらえる理性をもち、どんな理性も、理性がそのなかに自分のわずかな真理を見いだすような狂気をもつことになる。…両者はともに相手を否定しあうが、相手に根拠をおいている。神の見るところでは世界は狂気であるという古来のキリスト教的主題が、十六世紀に、こうした相互性の厳密な弁証法のなかに若返る。…神に近づくために狂気から離れようと努める動きもまた、人間の次元では狂気である。…神の知恵は長い間ヴェールをかけられていた理性ではなく、測りしれない深みである。…知恵の中心そのものがあらゆる狂気のめまいであれと願う主要な矛盾のしるしによって、たえず矛盾しあうことをやめない。…神の〈知恵〉と比べると、人間の理性は狂気にほかならなかった。人間のうすっぺらな知恵とくらべると、神の〈理性〉は痴愚神の大いなる動きのなかに含まれる。大きい尺度ではかると、すべては〈痴愚神〉の仕業にほかならず、小さい尺度ではかれば、〈すべて〉はそれじたい狂気なのである。すなわち、狂気は理性との係わり合いによってしかけっして存在しないけれども、理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。…狂気は…理性との相対性によってのみ実在し、その相対性のおかげで理性と狂気は相互に救いあうことによって、相互に相手を失ってしまう。(p.46-49)
[1]狂気は、理性と相関的な形式になる。あるいはむしろ、狂気と理性は、相互にいつまでも置換しうる関係をもつにいたる。この可逆関係によって、どんな狂気も、判断し統御してもらえる理性をもち、どんな理性も、理性がそのなかに自分のわずかな真理を見いだすような狂気をもつことになる。…両者はともに相手を否定しあうが、相手に根拠をおいている。神の見るところでは世界は狂気であるという古来のキリスト教的主題が、十六世紀に、こうした相互性の厳密な弁証法のなかに若返る。…神に近づくために狂気から離れようと努める動きもまた、人間の次元では狂気である。…神の知恵は長い間ヴェールをかけられていた理性ではなく、測りしれない深みである。…知恵の中心そのものがあらゆる狂気のめまいであれと願う主要な矛盾のしるしによって、たえず矛盾しあうことをやめない。…神の〈知恵〉と比べると、人間の理性は狂気にほかならなかった。人間のうすっぺらな知恵とくらべると、神の〈理性〉は痴愚神の大いなる動きのなかに含まれる。大きい尺度ではかると、すべては〈痴愚神〉の仕業にほかならず、小さい尺度ではかれば、〈すべて〉はそれじたい狂気なのである。すなわち、狂気は理性との係わり合いによってしかけっして存在しないけれども、理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。…狂気は…理性との相対性によってのみ実在し、その相対性のおかげで理性と狂気は相互に救いあうことによって、相互に相手を失ってしまう。(p.46-49)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
あの幻惑するさまざまの形態に近接した宇宙的にひろがる狂気経験と、諷刺という横切りがたい距離をおいたうえでの、同じ狂気についての批判的な経験、これらの対立の図式…。…これらの対立はそれほど顕著でもなく表面的でもなかった…。…双方から派生したものは交錯しあい…。…多くの相互干渉がなお見られるとはいえ、狂気経験の例の二つの形式への分割は、すでにおこなわれていて、両者の距離はもはや拡がるばかりである。宇宙的ヴィジョンをもつ形象と道徳的省察の動き、悲劇的要素と批判的要素、それらは今後ますます離れるだろう…。…十五世紀の絵画では、世界の悲劇的な狂気として展開される。その一方では…狂気は言説の世界を通して把握されている。…狂気は知恵に屈服しなければなるまい。狂気が自己正当化をおこなう場合の言説は、人間の批判的意識にしか属さない。文芸復興期の初頭、狂気について感じられ形づくられたすべては、批判的意識と悲劇的経験のこうした対立によって活気づけられてきた。だが、この対決は急速に消えさり…。…狂気の批判的意識は、ますますはっきりと解明されつづけたが、その一方では、狂気の悲劇的な形象はしだいに暗闇のなかに没入していった。…十六世紀には、(悲劇的意識の)根本的な絶滅ではなく、その隠蔽が重要になる。批判的に意識にあたえられた独占排他的な特権が狂気の悲劇的で宇宙的な経験を隠蔽したのである。…狂気の批判的意識の下部では、…悲劇的意識が目をさまし続けていたのである。(p.42-45)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
文学や哲学のような表現領域では、狂気経験は、十五世紀に、とりわけ道徳的な諷刺の傾向をおびている。例の画家たちの想像力につきまとっていた、侵入してくるようなあの激しい威嚇の調子を想起させるものは、ここにはすこしもない。反対に、そうした想像力を遠ざけるように気が配られているし、そのことは話題にされない。…賢者は、笑いの力をかりることによって、その世界(快い幻想)と一定の距離を保てるのだ。…もはや狂気は、世界の親しむ深い奇怪さではなく、単にそれは、外来の観客にはっきり理解される見世物にすぎないのだ。もはや、宇宙のひろがりという形姿ではなく、時の流れという特質をおびる。(p.41-42)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
同じ時代に、文学や哲学や道徳では、狂気(痴愚)の主題は、まったく別種の発想から生まれている。中世紀には、狂気は悪徳の階層秩序のなかに組み入れられていた。文芸復興期になると、狂気はこうしたつつましい地位を離れて第一の地位を占めるようになる。…原罪をせおう人間のそれは根本に傲慢の罪があったのにたいして、今では狂気が…人間のあらゆる弱点を指揮しているのである。…狂気の絶対的な特権。人間のなかにある悪のすべてを狂気が支配している…。だがそれは、人間がなしうるいっさいの善、欲、哲学者や学者に活力を与えるぶしつけな好奇心、こうしたものを間接的に支配していないだろうか。…狂気は例の知がたどる奇異な道と何かつながっているに違いない。…(根拠:狂人のまとうマントをひっかけた学者の挿絵版画の例)…知が狂気のなかでこんなに重要な役目を果たすのは、狂気が知の秘密を保持しうるからではなく、反対に、無秩序で無益な学問に対する懲罰となっているからだ。狂気が認識の真理であるのは、認識のほうがとるにたらぬものとなっているからであり、経験という偉大な〈書物〉に訴えかけずに、ほこりをかぶった書籍や役にもたたぬ議論のなかに埋もれているからである。学問自体が…痴愚(狂気)に陥っている。(p.38-40)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
文芸復興の地平への狂気の登場は、まず最初にゴシック的な象徴主義の衰退を通して認められる。…言いあらわし、思い出させ、教化することをやめて、もはやその幻想的な現存のみを…表現する。画像は、知恵から、そしてそれを支配していた教訓から解放されたいま、重心のようなそれ自身の狂気の周りをまわりはじめる。…中世紀にも親しまれた名高いグロテスク図柄…罪悪に夢中になった精神の堕落をあばいていた。ところが十五世紀になると、人間の狂気の画像であるグロテスグ図柄は、数多くの誘惑のなかの特権的な形象の一つとなる。…十五世紀の人間には、自分の夢想の、おぞましくさえある自由と、自分の狂気の幻影のほうが、生身の人間の欲望をかきたてる現実よりもはるかに多くの魅力があった。(p.34-36)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
十五世紀の後半に入る以前…死の主題だけが支配的だった。…狂気の主題が死の主題にとってかわったということは、両者の裂け目よりもむしろ、同じ不安のなかでの一つのゆがみを特徴づける。…かつては、死という終焉が近づきつつあることを全然認めないのが人間の痴愚(狂気)だったし、死を見ることによって人間を知恵にたちかえらせねばならなかった。ところが今では、知恵はいたるところで痴愚を摘発することになるだろう。人間たちがすでに死者以上の何ものでもない点、終焉が近いかどうかは普遍的となった痴愚がもはや死それじたいと同一でしかなくなるその程度に応じてである点を彼らに教えることに存するだろう。…十五世紀には、狂気と虚無のこの絆がきわめて密接にむすばれているので、それは長らく存続し、古典主義時代の狂気体験においてもなお見いだされるだろう。(p.31-33)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
小話と教訓劇の文学。…人間の悪徳や欠陥を…高慢や慈愛の欠如やキリスト教的な善行の閑却などに結びつけないで、一種の大いなる非理性に…結びつけている。狂気の摘発が批判の一般的な形式となる。〈笑劇〉や阿呆劇では、〈馬鹿〉や〈間抜け〉や〈阿呆〉の人物がますます重要さをます。この種の人物は…真実の保持者として舞台の中央に位置を占める。…狂気が、各人を盲目状態にさそいこみ、身を滅ぼさせるのに反して、馬鹿は各人にその真実を思い出させる。…高尚な文学においても、〈狂気〉は理性と真理が働いているその核心において作用している。…狂気はまたアカデミックな仕事にも用いられている。それは論説の対象であり…これらすべての論説に対して、他方…ジェローム・ボッシュから…ブリューゲルにいたる画像の長期間の支配時代がある。(p.30-31)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
西洋の想像力のなかで狂人の航行が大昔からかくも多くの主題とつながっていたのに、なぜ十五世紀ごろ突如として、この主題が文学と画像のなかで急激に表明されるのか?…その理由は、この船が、中世末期のころヨーロッパ文化の地平ににわかに起こった一つの不安をそっくり象徴するからである。狂気と狂人は、威嚇と嘲笑、世界のもっている、目がくらむほどの非理性、人間のちっぽけな愚かさという多義的な姿をした中心人物となる。(p.30)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
文芸復興期の空想上の風景のなかに、ひとつの新しい事物が出現し、やがてそれは特権的な位置を占めるようになる。…阿呆船…〈アルゴ船物語〉という古い作品から借用されたに違いない文学的創作であって…そうした船に関する創作が流行する。…これらの空想的あるいは嘲笑的な船のうち、阿呆船だけが現に実在した唯一の船である。実際、気違いという船荷をある都市から別の都市へはこんでいた船が実在したのだった。…重要な都市では、相当な人数の狂人が…連れて来られ、出身地の町をみずからの存在で浄化し、連れてこられた先で「放たれた」のだと考えられるだろう。…狂人たちのこの往来、彼らを放逐する行為、彼らの出発と乗船、こうした事態は単に社会的効用や市民の安全という次元だけの意味をもつにとどまらない…。宗教儀礼にいっそうつながっている他の意味もたしかに現存していた…。(p.25-27)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
癩病のあと、その中継として登場するのは、まず性病だった。突如として十五世紀末…あとをつぐのである。…しかしながら、中世文化のなかで癩病が果たしていた役割を、古典主義時代の世界でちゃんと引き受けるようになるのは、性病ではない。最初の間こそこうした排除措置がとられたけれども、性病はやがて他の病気にまぎれこむ。…癩病の正真正銘の遺産相続を探すべき場所は、性病などではなくて、きわめて複雑な現象のなかであって…この複雑な現象とは、狂気である。しかしながら、この新しい強迫観念が、一世紀にわたる恐怖のなかで癩病のあとにつづき、それと同じように分割・排除・浄化という反作用…を起こさせるためには、二世紀近くの長い潜伏期間を必要とするだろう。十七世紀なかばごろ、狂気が人間によって統御される前まで、狂気のために古い祭式が復活される前までは、狂気は文芸復興期のあらゆる主要な経験と頑固に結合されてきたのである。(p.24-25)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
中世末期になると、癩病は西洋世界から姿を消す。…それはおそらく…十字軍時代が終わったあと、近東諸国の伝染病流行地帯との交渉がとだえたために起こった帰結でもある。癩病は姿を消し、あの汚辱の場所とあの祭式—それらは癩病を防止する役目ではなく、神聖な距離をもうけてそれを維持し、逆方向の興奮によってそれを固定する役目をあたえられていた―を、用事がなくなって見棄ててしまうのだ。おそらく癩病よりも長期間のこりつづけるもの、…それは癩病患者という人物に結びつけられてきた、さまざまの価値およびイメージである。それは患者幽閉の意味であり、社会集団におけるこの執念深く恐ろしい人物像の重大性であって、人々はそのまわりを神聖な輪でつつんだのちにはじめて、この人物像を遠ざけるのである。(p.21-23)
--出典: 狂気の歴史―古典主義時代における
人は身振りを目撃した際に、その身振りの意味を自らのうちに探したり、自分の内的な経験のうちに探したりすることはない。…身振りそのもののうちに、怒りを読み取るのである。怒りの身振りがわたしに怒りについて考えさせるのではない。怒りの身振りは、怒りそのものなのである。ただしわたしは身振りの意味を、例えばカーペットの色を知覚するように、知覚するのではない。身振りの意味が一つの事物のように与えられていると考えると、人が了解できる身振りの多くが、人間の身振りだけに限られることが理解できなくなる。…意志の伝達や身振りが理解されるためには、わたしの意図と他者の身振りの間の相互性が必要であり、さらにわたしの身振りと他者の行為のうちに読み取れる意図の間の相互性が必要である。…(物を知覚するとき、すべての遠近法に共通な意味を結論するのではなく)その固有の明証性において知覚する。…これはなんらかの認知に基づくものではなく、身体の現前の経験に基づくものである。…同じように、わたしは他者の身振りを知的な解釈の行為によって理解するのではない。意識と意識の伝達は、それぞれの意識の経験における共通の意味に基づいたものではない。…わたしが他者を理解するのは、わたしの身体によってである。わたしが「事物」を知覚するのが、身体によってであるのと同じように。(p.27-31)
普通の考え方では、言葉は思考を固定するための手段にすぎないとか、言葉は思考の外皮であり、衣装であると言われることが多いものだが、こうした考え方を認めることはできない。…語に固有の意味の能力がそなわっていなければ、語が「思考の砦」であることはできないし、思考は表現を探すことができない。なんらかの形で、語と言葉が、対象や思考を指示するための方法であることをやめ、知覚される世界における思考の現前そのものでなければならない。語は思考の衣装ではなく、その象徴であり、その身体でなければならない。…言葉は真の所作であり、所作が固有の意味を含むように、言葉はその固有の意味を含む。ここではじめて、コミュニケーションが可能になる。…しかし、それは…相手の最初の「表象」がわたしのうちに再生産することを意味するのでもない。…わたしがこの他者の意図を受け取るということは、わたしの思考の操作ではなく、わたし自身の実存がこれに同調して変化することであり、わたしの存在の変形である。(p.23-26)
言葉についての通説では、思考も言葉も凝固させておいて、このふたつの間に外的な関係しか見いださない。まず、話す主体においては思考では表象ではないこと、思考は対象や関係を明確に措定するものではないことを確認しておく必要がある。語り手は、話す前に考えるのではないし、話す間に考えるのでもない。語り手の言葉が思考そのものなのである。…空間の中で身体を動かすために、外的な空間とわたし自身の身体を表象する必要はなかった。こうした空間と身体が存在し、わたしの周囲にはりめぐらされた行動の場を形成していれば、それで十分だった。同じように、語を知り、これを発語するには、語を表象する必要はない。自分の身体に可能な使用法の一つとして、様態の可能性の一つとして、語の文節的で調音的な本質を所有していれば十分である。…わたしの想像力とは、自分の周囲にわたしの世界が存在し続けることにほかならない。わたしがピエールを想像するということは、「ピエールの振る舞い」をわたしの中で作動させて、ピエールの疑似現前を作り出すことである。想像したピエールが〈世界における存在〉の一つの様態にすぎないのと同じように、語のイメージは、わたしの身体の全体的な意識において、他の多くの様態とともに与えられた音声的な身振りの一つの様態にすぎない。…記憶における身体の役割を理解するためには、記憶を過去を構成する意識と考えるのではなく、現在における関わりから出発して、時間を再び〈開こう〉とする努力と考えねばならない。身体はわたしたちが「姿勢をとる」ことのできる手段であり、疑似現前を作り出すことのできる手段、空間だけでなく時間と交わるための手段であると考えなければならない。…身体は特定の運動的な本質を〈声化〉し、調音の現象のうちに一つの語の文節的なスタイルを展開し、身体が取り戻す自然の態度を過去のパノラマのうちに展開し、実際の運動のうちに運動の意図を投射する。
カントの有名な問いに対しては、わたしたちは内的な言葉や外的な言葉によって、自分の思考を示すのであり、(言葉で表現することは)実際には思考の経験なのであると答えることができるだろう。…わたしたちは事物を認識し、次に事物の名前を呼ぶのではない。認識すること、それは事物の名前を呼ぶことである。…言葉は、言葉を語る者においては、すでに作り上げられた思考を翻訳するものではなく、思考を成就するものとなる。言葉を聞くものが、言葉そのものから思考を受け取ることは、明らかだろう。…語や語句に意味を与えるものは聞いた者であり…聞く者のうちに、この結びつきを自発的に実現する能力がなければ、これを理解することはできないと考えられるからだ。…するとコミュニケーションという経験は、幻想になる。…片方の意識から他の意識へは、実はなにも渡されないということになる。しかし、ここで問題なのは、意識が何かを学ぶという事態が存在しているようにみえるのはなぜかということ…。…ここには、既知の項の関係から、未知の項を見いだすという(数学的な)問いの解と比較できるものはなにもない。…他者を理解する場合には、問題はつねに未決定なままである。問題が解決された後になってはじめて、所与が解決へと収斂するものとして思い出されるのである。…ここでは語の意味が最終的には語そのものによって導かれることが必要である―正確に言うと、語の概念的な意味は、言葉に内在する身振り的な意味作用から引き出されることで形成される必要がある。(p.14-18)
経験主義的または機械論的な心理学と、これとは正反対の主知主義的な心理学には、互いに深い結びつきがある…。…片方の理論では、語の再生、語のイメージを蘇生させることを基本的な問題であった。これに対して、その反対の理論では、これは内面的な操作としての本物の言葉や、真の命名の〈覆い〉のようなものにすぎないと主張する。ところが…どちらの考え方も、語は意味を持っていないのである。…語に意味が〈ない〉というわけではない。語の背後にはカテゴリー的な操作が存在するからだ。しかし語はこの意味を持っているのではない。…意味を所有するのは思考であり、語はその空虚な外皮にすぎないのである。(p.12-13)
言語を所有すること、それはまず単なる「言語的なイメージ」が事実として存在すること、発語したり、耳から聞こえた語が残した痕跡が、わたしたちのうちに存在することとして理解された。この痕跡が身体的なものであると考えるか、「無意識的な心的作用」のうちに沈殿していると考えるかは、それほど重要ではない。どちらも「話す主体」が存在しないという意味では、言語について同じような考え方をしているのである。…ところで人間には選択的な障害というものがある。…こうした障害から判断して、言語は独立した構成要素で形成され、一般的な意味での言葉というものは、思考の産物にすぎないと考えられるようになる。…正常な人間が所有しており、患者が失ったもの、それは語のいわば〈在庫〉ではなく、語のある種の使い方である(例:現実的な文脈を離れると語を使えなくなる失語症患者、色名健忘と色の分類の障害)。…ある対象を名付けるということは、その対象に固有の個性的な要素から離れて、一つの本質やカテゴリを代表するものを、その対象のうちに見つけること…。…(患者は)感覚与件をカテゴリーのもとに分類する一般的な能力を失った…カテゴリー的な態度から具体的な態度へと転落した…。こうした分析から…いまや言語は、思考によって条件づけられたものにみえてきた…。(p.8-12)
バルザックは『あら皮』で、「降ったばかりの雪のようなテーブルクロスの上に、左右の釣り合いのとれた食器がそびえ、その上をブロンド色の小さなパンが飾る」と表現していた。セザンヌは「青年時代を通じて、私はこれを、すなわち降ったばかりの雪のようなテーブルクロスを描きたいと思っていた…。しかし今では、左右の釣り合いのとれた食器がそびえているところや、ブロンドの小さなパンしか描こうとしてはならないことがわかっている。もしも『飾る』を描いたら、私の絵は一巻の終わりだ。おわかりかな。ほんとうに食器やパンの色調を自然のニュアンスのままに描きだし、バランスをとれば、『飾る』も雪もすべてのふるえも、みんなそこに現れるだろう」と語っている。
世界を作っている多くの材料―物質、エネルギー、波動、現象—は、世界と一緒に作られる。しかし、何から作られるのか。どう見ても無からではない。それは他の世界から作られる。世界制作はわれわれの知るかぎり、つねに手持ちの世界から出発する。制作(メイキング)とは作り直し(リメイキング)なのだ。…本書における私の関心は…ある世界を他の世界から構築するさいの工程にある。(p.26)
--出典: 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)
あるヴァージョンを、記述も、描写も、知覚もされない世界との比較によって検証するのは不可能である。…「世界」とはおそらくあらゆる正しいヴァージョンが記述するところのものだろう。だから、どんなヴァージョンが正しいかを決定することは「世界について学ぶこと」だといえよう。ところが、われわれが世界について学ぶことは、その正しいヴァージョンのうちにすべて含まれているのである。(p.23)
--出典: 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)
多くの世界があるというのは、正確にはどういう意味でなのか。本物の世界をいつわりの世界から区別するものは何なのか。世界は何から作られているのか。世界はどのようにして作られるのか。その制作にさいして記号はどのような役割をはたしているのか。さらに世界制作は知識とどのように関連しているのか。これらの問いを正面から取り上げなくてはならない。(p.18)
--出典: 世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)
(真面目な笑話の)第三の特徴は、このジャンルがすべて意図的に複数の文体、多様な声を含んでいることである。…いくつかのジャンルで主導的役割を担っているのは、複声的な言葉である。つまりそこには、文学の素材としての言葉に対する根本的に新しい態度が登場しているのだ。(p.223-224)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
真面目な笑話の諸ジャンルの際立った特徴はどこにあるのか?…それらはみな、多かれ少なかれ独特のカーニバル的フォークロアと深い関わりを持つ点で一致していた。…確かに真面目な笑話のジャンルはすべて強い弁論術の要素を含んでいるが、しかしその要素も、カーニバル的世界感覚の陽気な相対性の雰囲気の中で、根本的な変化をこうむっている。つまりその一面的な弁論術的生真面目さ、分別臭さ、一義性と教義主義が弱められているのである。
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
文体模写とパロディーにおいては、すなわち第三タイプの言葉のうち最初の二つのバリエーションにおいては、作者は他者の言葉を自分自身の意図を表現するために利用する。それに対し、三つ目のバリエーションにおいては、他者の言葉は作者の発話の枠外にとどまっているのだが、しかし作者の発話は他者の言葉を考えに入れ、それと関係づけられているのである。(p.393)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
そこ(パロディー)では作者は、文体模写におけると同様、他者の言葉を話すのではあるが、文体模写とは違って、その言葉の中に、他者の方向性とは真っ向から対立する意味的方向性を持ち込む。(p.390)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
主人公の自分自身に対する関係は、彼の他者に対する関係および他者の彼に対する関係と不可分に結びついている。自意識はいつでも自分自身を、彼についての他者の意識を背景として知覚する、つまり、《自分にとっての私》は《他者にとっての私》を背景として知覚されるのである。したがって主人公の自分自身についての言葉は、彼についての他者の言葉の間断なき影響のもとで形成されるのである。(p.420)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
第三タイプの言葉の様々な現象には、それが文体模写であれ、[語り手による]叙述であれ、一人称の叙述であれ、いずれそのすべてに共通する特徴があって、どの現象もその特徴のおかげで第三タイプの独特なバリエーション(第一バリエーション)を形成しているのである。この特徴とは、作者の意図が他者の言葉を、他者の文体自体の課題にそって模写するのであり…作者の意図を自分の中で屈折させながらも、けっして自分の道から逸脱することはなく、自分自身に真に固有の調子とイントネーションとを手放さないのである。…作者の思想は、他者の思想と衝突することもなく、その思想の方向にそってその思想に追随しながら、ただその方向性を条件づきのものとするに過ぎないのである。(p.389)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
文体模写はある文体の存在を前提としている。すなわち文体模写は、自分が再現しようとする文体的手法の総体が、かつては直線的で直接的な意味作用を持ち、最終的な意味決定権を発揮していたことを前提としているのである。だから、文体模写の対象となり得るのは、第一タイプの言葉だけである。文体模写は,他者の指示対象的な意図を、自分の目的のために、つまり自分の新しい意図のために役立たせようとする。文体模写の実践者は、他者の言葉を他者のものとして用いながら、同時にその言葉に客体化の影をうっすらとかけてやる。…客体化の影の一部は,特定の視点そのものに投げかけられることになり、その結果その視点そのものが条件づきのものと化してしまうことになる。条件づきの言葉ーそれは常に複声的な言葉である。条件づきの言葉となることができるのは、かつては無条件の真剣な言葉だったものだけである。この本来の直線的で無条件な意味が、今度は新しい目的のために奉仕することになり、その新しい目的が内側からその意味を支配し、それを条件づきのものとしようとするのである。この点において、文体模写は模倣から区別される。模倣は形式を条件づきのものとすることがないが、それは模倣自体が模倣されるものを真面目に受け取り、それを我がものとするからであり、他者の言葉を直接的に消化吸収していまうからである。…文体模写に類似したものとして…語り手による叙述がある。…しかしこの場合は文体模写の場合に比べて、語り手の言葉に射している客体化の影ははるかに色濃く、一方条件づきの性格ははるかに弱められている。…それでも純粋に客体化された語り手の言葉というものは絶対にあり得ない。…(作者は語り手の言葉を)多かれ少なかれ条件づきのものとするのである。(p.382〜384)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
人間とはけっして自分自身と一致しない存在である。…人格としての個人が本当に生きる場所は、あたかも人間が自分自身といっちしないこの一点なのである。つまり何の相談も受けず、《本人不在のまま》盗み見られ、決めつけられ、予言されてしまうような事物的存在の枠を、彼ら抜け出そうとするその点なのである。人格の真の生を捉えようとするなら、ただそれに対して対話的に浸透するしか道はない。そのとき、真の生はこちらに応え、自らすすんで自由に自己を開いてみせるのである。(p.122〜123)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
こうした現象(文体模写、パロディー、説話、対話)にはすべて、相互の本質的差異にもかかわらず、共通の特徴がある。それは、こうした現象において言葉は二つの方向性を、すなわち普通の言葉として発話の指示対象へ向かう方向性と、他人の言葉へ他者の発話へと向かう方向性とを持っているということである。(p.374)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
主人公が自らに事態を説明しながら…到達する《真実》とは、ドストエフスキーの目から見ればそもそも、恐らくはこの人物自身の意識にとっての真実に過ぎないのである。それは自意識に対してニュートラルではあり得ない真実なのだ。(p.115)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
モノローグ的な構想において主人公は閉じられており、はっきりとした意味上の輪郭で囲まれている。彼の行為も経験も思考も意識も、すべて彼はこれこれの者であるという定義の枠内で、つまり現実の人間として決定された自己イメージの枠内で行なわれるのである。…このような世界が成立するためには、確固たる外部の立場、確固たる作者の視野が存在することが前提とされる。主人公の自意識は…彼を規定し描写する作者の意識の鞘に収められ、そのうえで外部世界の確固たる基盤の上に置かれているのである。(p.107)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
ドストエフスキーにとって大切なのは、主人公が世界において何者であるかということではなく、何よりもまず、主人公にとって世界がなんであるか、そして自分自身にとって彼が何者なのかということなのである。…そこで解明し性格づけるべきものは、主人公という一定の存在、彼の確固たる形象ではなく、彼の意識および自意識の総決算、つまりは自分自身と自分の世界に関する主人公の最終的な言葉なのである。したがって、主人公像を形成する要素となっているのは、現実(主人公自身および彼の生活環境の現実)の諸特徴ではなく、それらの特徴が彼自身に対して、彼の自意識に対して持つ意味なのである。(p.100)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
ドストエフスキーが多次元性や矛盾性を発見し、理解することができたのは、精神においてではなく、客観的で社会的な世界においてなのである。この社会的な世界においては、複数のレベルとはそれぞれ何らかの段階を示すのではなく、対立し合う複数の人間集団を示すのであり、それぞれの間の矛盾した関係とは、人格がたどる上昇・下降の道程ではなく、社会の状況を表しているのである。つまり社会的現実の多次元性と矛盾性が、時代の客観的な事実として提示されているのだ。…ドストエフスキーの芸術的ヴィジョンの基本カテゴリーは、生成ではなく、共存と相互作用だったということである。…様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えたうえで、劇的に対置し対決させようとする。(p.56〜57)
--出典: ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)
空間と場所の区別…。場所というのは、もろもろの要素が並列的に配置されている秩序のことである。…ここを支配しているのは「適正」かどうかという法則なのだ。…場所というのはしたがって、すべてのポジションが一挙に与えられるような布置のことである。…空間というのは、それを方向づけ、状況づけ、時間化する操作がうみだすものであり…空間とは実践された場所のことである。…読むという行為も、記号のシステムがつくりだした場所ー書かれたものーを実践化することによって空間をうみだすのである。…メルロ=ポンティも、「幾何学的」空間…とはちがったもうひとつの「空間性」を区別し、それを「人間学的空間」とよんでいた。…このような見かたにたてば、「さまざまな空間経験の数だけ、空間の数があることになる」。世界の内に在るという「現象学」がメルロ=ポンティのこのパースペクティヴを規定しているのだ。(p.242〜243)
--出典: 日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)
「戦略的な」合理化というものは、…「周囲」から「自分のもの(プロープル)」を、すなわち自分の権力と意志の場所をとりだして区別してかかる。言うなればそれはデカルト的な身ぶりである。〈他者〉の視えざる力によって魔術にかけられた世界から身を守るべく、自分のものを境界線でかこむこと。科学、政治、軍事を問わず、近代にふさわしい身ぶりなのだ。…こうした戦略にたいして…わたしが戦術とよぶのは、自分のもの[固有のもの]をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。…戦術には自律の条件が備わっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。…それ(戦術)は、…「敵の視界内での」動きであり、敵によって管理されている空間内での動きである。だから戦術には、グローバルな計画をたてることも…できない。戦術は、ひとつひとつ試行錯誤的にやってゆくわけである。…(戦術は)時のいたずらに従わねばならない。所有者の権力の監視のもとにおかれながら、なにかの情況が隙をあたえてくれたら、ここぞとばかり、すかさず利用するのである。戦術は密猟をやるのだ。意表をつくのである。(p.100〜102)
--出典: 日常的実践のポイエティーク (ポリロゴス叢書)
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